都市化進展と労働者階級
Armut im Vormärz(1840/Theodor Hosemann画/Wikimedia commons)©Public Domain

都市化進展と労働者階級

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都市化進展と労働者階級

都市の人口の急激な増加は生活環境をひどく悪化した。労働者の住宅は狭いうえにトイレや下水の設備も整っておらず、日当たりも悪かった。労働者は長時間労働のうえに栄養状態も悪く、結核・梅毒・天然痘などの伝染病が絶えなかった。ドイツ人エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』に詳しく述べている。

都市化進展と労働者階級

イギリスでは、産業革命はランカシャー地方のマンチェスターや中部地方のバーミンガム、スコットランドのグラスゴーのような工業都市をはじめ、リヴァプールのような港町など、さまざまな都市を劇的に発展させた。こうして都市人口の比率が急速に高まり、生活様式も変化した。その結果、失業や貧困・伝染病など多くの社会問題が生じた

また、産業資本主義の発達によって、共通の利害をもつひとつの階級としての意識をもった「労働者階級」が成立した。19世紀のイギリス社会は、おおまかにいえば、彼らと資本家階級地主階級(地主貴族)の三大階級によって構成されるようになった。

イギリスの産業革命 産業革命時代のイギリス地図
産業革命時代のイギリス地図 ©世界の歴史まっぷ

産業革命は、工場制機械工業による大量生産を定着させた。このため、熟練した技術は必要でなくなり、賃金の安い女性や子どもが多く使われるようになった。これまで手工業をになってきた職人のなかには、職を失うものもあった。彼らは、囲い込みによって農業を続けられなくなった農民と同じように、都市でも農村でも、賃金労働者として生きていくほかなくなったのである。

産業革命時代の工場労働者には、このほかアイルランドから仕事を求めて流入した人々が多く含まれていた。1801年に、アイルランドがイギリスに併合されると、この傾向はいっそう強まった。

アイルランドのポテト飢饉

アメリカのジャガイモ(ポテト)がヨーロッパにもたらされたのは、16世紀末、ウォルター・ローリーによってであったとされるが、定かではない。ただ、この作物が、18世紀のうちには、アイルランドやウェールズで広く栽培されるようになったことは確かである。他方、ロンドン周辺では、「貧民の食品」として敬遠されがちでもあった。とはいえ、同じ面積の土地で小麦の4倍の人を養えるといわれただけに、18世紀末のアイルランドでは、産業革命のおこったイギリス以上の人口増加がおこった。アイルランドで増加した人口のかなりの部分がイギリス北西部の工業地帯に流入して、産業革命の労働力となったことからすれば、ジャガイモが産業革命を支えた一面もある。

しかし、1840年代後半になると、アイルランドのジャガイおに病気が蔓延し、大飢饉がおこった。こうして多数の人々が生活の糧を求めてアメリカにむかった。これが合衆国にアイルランド人の大集団が成立するきっかけとなった。

1814年には、これまで強制されてきた徒弟修行の条件がなくなり、だれでも自由に営業ができるようになって、ギルドによって守られていた親方職人の地位はさらに低下した。たとえば、ロンドンに多くみられた仕立て職人は誇り高い職業であったが、営業が自由になると、縫製作業のおおかたをスラムの貧しい女性たちにひどい低賃金で下請けさせるものが増え、社会問題となった。また徒弟修行が必要でなくなり、工場などで早くから賃金労働につけるようになった結果、早婚の傾向が強まり、これがこの時代の激しい人口増加の一因ともなったといわれている。

こうして、都市の人口が急激に増えたために、住宅をはじめとする生活環境はひどく悪化した。この時期の労働者の住宅は、狭いうえにトイレや下水の設備も整っておらず、日当たりも悪かった。その悲惨な情景は、ドイツ人フリードリヒ・エンゲルスが、その著『イギリスにおける労働者階級の状態』に詳しく述べている。労働者は長時間労働のうえに栄養状態も悪かったので、かつてのペストは消滅したが、結核・梅毒・天然痘などの伝染病が絶えなかった。とくに1830年代初めのコレラの流行ぶりは、すさまじかった。

困難な状況は都市だけには限らなかった。農村でも囲い込みが進んで、伝統的な農民の共同体はくずれていった。共有地で放牧したり、たきぎをとったりして家計を補うことも困難になった。こうして、多くの人々が困窮したようすは、当時の文学作品によくとりあげられている。

当時の文学作品、とくに詩にはロマン主義の影響が強く表れていたので、産業革命以前の農民の生活を理想とし、工業文明を批判する傾向が強かった。実際に、産業革命はイギリスの民衆の生活をよくしたのか悪くしたのか、という点については、当時から議論がある。現代からみれば、産業革命を経験した国々では生活レベルが高くなっていることは明らかだが、当時はあまりにも多くの社会問題が生じたから、一度は生活水準が低下したとする考え方も強いのである。

住民同士の共同体的なつながりは都市ではとくに弱かったので、救貧の問題が都市でも農村でも深刻になった。18世紀末には、最低生活を維持できるだけの賃金のえられない者に補助を与える制度(スピナムランド制)が広がった。しかし、この制度はあまりにも費用がかかりすぎたため、1834年にはエリザエス時代から続いた救貧法が全面的に改訂され、「自助」の精神が強調されることになった。

自助の精神を強調する考え方はピューリタニズムからでてきたもので、産業革命の進行とともに勢力を拡大してきた中産階級にうけいれられた。この考え方からすれば、貧困は本人の責任ということになる。自助の精神を強く奨励したサミュエル・スマイルズ『自助論』は、ベストセラーになった。この書物は日本でも、明治時代に中村正直の手で紹介され(『西国立志篇さいごくりっしへん』)、人気を博した。
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このような状況に対して、労働者は団結して労働条件の改善を求めはじめたが、不安を抱いた政府は団結禁止法(結社禁止法 1799・1800)を制定してこれを弾圧しようとした。機械化で職を失った職人たちは、古くからの「打ちこわし」の習慣に従って、「機械打ちこわし運動(ラダイト運動)」(中部地方のメリヤス編み工たちが核となり、「ラッド」なる人物がリーダーとされたが、そのような人物が存在したかどうかは不明)を展開したが、この運動も1810年代をピークとして衰えた。機械化は、抵抗しがたい時代の流れとなっていったのである。

むろん、産業革命は悲劇ばかりをもたらしたのではない。産業革命以前の女性や子どもも厳しい労働に従っており、それでいながら、夫であり父である戸主の絶対的な権威のもとで、権利を認められていなかった。工場制度が普及すると、家族はバラバラに雇用され、妻や子の労働も、どんなにわずかであるにせよ明確に賃金というかたちで評価されるようになった。家族のなかでの女性や子供の地位は向上したものと思われる。

他方、工場で働くようになった母親は、もはやたとえば子どもの着るものをつくってやる時間の余裕はない。こうして、産業革命前には家族で自給されていた多くのものやサービスが現金で買いとられるようにもなった。たきぎも食物も、すべて同じである。人々の生活の「商品化」が始まったのである。

工場労働は時間給が普通であったから、農民の生活とは違って、機械時計の刻む時間によって時間を厳守することが要求された。当時の人々はこのような習慣には慣れていなかったから、労働時間の問題が経営者との間で深刻な対立点となった。1802年以降、何度も制定された工場法が主として労働時間の短縮をめざしていたのも、このためである。

時間給が普及したことは、労働の時間と生活の時間がはっきり別れたことを意味する。生活の時間はレジャーの時間でもあり、労働者の多くはパブに集まって飲酒を中心にした娯楽に興じた。工場経営者などはこのような習慣を非難し、「時はカネなり」といったピューリタニズムの行動指針を押しつける一方、旅行や読書・音楽といった、もっと「上品な」娯楽を強制しようとしたため、ここでも深刻な対立がおこった。

人々の読み書き能力は、産業改革で一時的に低下したが、まもなく上昇しはじめ、労働者向けの新聞やパンフレットなどの出版物も増えていった。労働者がひとつの階級として連帯感をもつようになったのには、このことが大いに影響した。

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