プラッシーの戦い 遅れてきた諸国(英・仏両国のインドへの定着)
プラッシーの戦い後ミール・ジャアファルと面会するロバート・クライヴ ©Public Domain

遅れてきた諸国(英・仏両国のインドへの定着)

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遅れてきた諸国(英・仏両国のインドへの定着)

ポルトガル、オランダに遅れてアジア進出を開始した英・仏両国は、香料諸島には入りこめなかったが、インド亜大陸をおもな拠点としてアジア経営を展開した。

遅れてきた諸国(英・仏両国のインドへの定着)

16世紀の中ごろ、アントウェルペン市場が崩壊した結果、イギリス人は毛織物の最大の輸出市場を失ったばかりか、東方物産の輸入市場をも失った。

オランダ独立戦争(八十年戦争)の過程でアントウェルペンは、スペイン軍による封鎖と経済活動の中心となっていた市民の亡命によって経済活動が壊滅した。( 覇権国家オランダ
イギリスは、ネーデルラントを支配しているスペインと対立したことなどが原因となって、アントウェルペン市が閉鎖された。( エリザベス1世と植民地帝国への端緒

このためイギリス人は、東方物産を直接アジアから輸入しようとして、レヴァント(トルコ)会社やロシア会社(陸路アジアの商品を輸入する)をつくったり、ポルトガルの勢力をさけ、北極海を越えてアジアに行こうとする「北東航路」の開発を試みたりした。しかし、喜望峰経由のアジア貿易にオランダ人が成功したのをみたイギリス人は、1600年エリザベス1世の特許状によって東インド会社を設立し、アジアへの進出を開始した。

ヨーロッパ人の進出とインド洋世界 1763年の世界地図 アジアの通商圏とポルトガルの進出 アジアの通商圏とポルトガルの進出
1763年の世界地図 ©世界の歴史まっぷ

イギリス東インド会社は、ケープからマゼラン海峡までの地域について、貿易のみならず外交・軍事の権利を与えられていたものの、17世紀中期に改革されるまでは継続性にとぼしく、オランダのそれにくらべてきわめて弱体であった。このため、とくに「アンボイナ虐殺事件」以降は、やむなくインドに拠点をおくことになった。インドでは、スラトマドラスボンベイなどに大規模な商館が設けられ、貿易の拠点となったが、しだいにカルカッタががイギリスによる支配の中心となっていった。

これにともなって、輸入品も変化した。17世紀後半以降、ヨーロッパでは香料の人気が衰え、インド産綿織物の需要が高まったので、これが主要な輸入品となったのである。こうして輸入されたインド産絹織物に対抗しようとして技術革新が進んだことが、イギリスで綿織物工業が発展し、産業革命の先駆けとなった一因であった。

他方、17世紀後半になると、コルベール体制を整えたフランスも、アジアへの進出を目指すようになった。フランスでは、1604年にアンリ4世(フランス王)のもとでフランス東インド会社が創設されたが、実質的な活動ができないままにいったん消滅したのち、1664年に再建された。この会社は、1674年に土地の支配者からポンディシェリを買収し、同年獲得したシャンデルナゴルとともに、フランスのインド経営の核とした。こうして、ポルトガル、オランダに遅れてアジア進出を開始した英・仏両国は、香料諸島には入りこめなかったが、インド亜大陸をおもな拠点としてアジア経営を展開した。

17世紀のインドでは、ムガル帝国による支配領域がシャー・ジャハーンやその息子、アウラングゼーブの手で拡大されていったが、18世紀に入ると、国民の大半をなしたヒンドゥー教徒が不満を抱きはじめたうえ、アウド・ハイデラバード・ベンガル・カーナティックなどの地方の有力な支配者(太守)はしだいに独立の傾向を強めたため、その大帝国は分裂を始めた。パンジャーブ地方ではシク教徒の反乱があり、西部では、ヒンドゥー・マラーター同盟による侵入がくりかえされ、1739年にはイランのナーディル・シャーがデリーにまで侵攻するなど、ムガル帝国は名目的な存在となっていった。

18世紀には、英・仏両国はたがいにインド各地の地方支配者間のこうした対立を利用しつつ、激しい抗争を展開する。18世紀中期には、フランスはデュプレクス(フランス領インド総督)(1697〜1763)の指揮下に、イギリス東インド会社と軍事対立を続け(1757年 プラッシーの戦い)、勢力を拡大した。

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