イタリア都市とその市民の生活 北と南のイタリア イタリア戦争 1494年のイタリア地図
1494年のイタリア地図 ©世界の歴史まっぷ
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北と南のイタリア

  • 北イタリア:ヴェネツィア・ジェノヴァ・フィレンツェなどが地中海商業で富を蓄積し、独特の都市共和国(コムーネ)を形成。ギベリン(皇帝党)とゲルフ(教皇党)の対立。
  • 中部:ローマ教皇領
  • 南イタリア:両シチリア王国、ナポリ王国。集権国家を形成。

北と南のイタリア

西ヨーロッパ中世世界の変容
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

中世後期のイタリアは、中部のローマ教皇領を挟んで、北と南でそれぞれ異なった歩みを見せることになった。北イタリアでは、ドイツやフランスのような封建制はあまり発展せず、ヴェネツィア・ジェノヴァ・フィレンツェなどが地中海商業で富を蓄積し、独特の都市共和国(コムーネ)( 都市の自治権獲得 – 世界の歴史まっぷ)を形成していった。ドイツ皇帝のイタリア遠征が続きローマ教皇と対立が激化すると、諸都市は皇帝党(ギベリン Ghibellines)と教皇党(ゲルフ Guelfs)に分かれて争った。都市の内部でも大商人などの上層市民はギベリンを、新興市民層はゲルフをそれぞれ支持し、激しい戦闘を繰り広げた。

フリードリヒ1世の遠征に対する北イタリア諸都市のロンバルディア同盟の結成( 都市の自治権獲得 – 世界の歴史まっぷ)は、ゲルフとしての戦いであった。

トスカナ平原のフィレンツェでは、13世紀後半市民がギベリンの貴族を追放して共和制を実現(フィレンツェ共和国)、教皇と結びついて金融・商業を中心に発展した。だが、大商人・金融業者ら大市民が市政を独占するようになると、中産市民・下層労働者らの小市民はこれに反発し、1378年にはチオンピの乱が起こった。結局、市政は大市民層に掌握され、アルヴィッツィ家メディチ家(1434〜1494)による寡頭支配が行われた。

メディチ家

13世紀に薬種業から勃興し、14世紀をつうじてフィレンツェの富裕商人の仲間入りを果たした。チオンピー一揆の際、アルビッツィ派に敗れるが、ジョヴァンニは銀行業で得た資産をもとにこれに対抗し、次のコジモの代にはフィレンツェの支配圏を握った(1434)。その子ピエロをへて、孫のロレンツォの代(1448〜1492)にメディチ家の絶頂期を現出したが、次のピエロ2世の代に市民の反乱が起こり、フィレンツェの支配権を失った(1494)。

またロンバルディアの中心ミラノでは、13世紀末にヴィスコンティ家が実権を握り14世紀末以降公国を称した(ミラノ公国)。その支配は中部イタリアの一部にまでおよんだが、15世紀半ばにスフォルツァ家にとってかわられた。他方、市民の中から選ばれた総督(ドージェ)による寡頭政治がおこなわれたヴェネツィアでは、強力な艦隊をもとにアドリア海から東地中海に進出し、第4回十字軍を利用してコンスタンティノープルを攻略、各地に植民地を獲得した。さらに14世紀には地中海の覇権をかけて宿敵ジェノヴァと戦いこれを撃破、東方貿易を独占して「アドリア海の女王」の名をほしいままにした。

南イタリアは、8世紀以降イスラームの支配下にあったが、11世紀にはノルマンが進出、やがてルッジェーロ2世(シチリア王)によりシチリア島とナポリにまたがる両シチリア王国が建設されると、司法・行政が整備され集権化が進んだ。そして、首都パレルモの宮廷には、イスラーム文化にビザンツ・ノルマンの文化が融合した国際的文化が形成された。その後、支配権はドイツのシュタウフェン家をへてフランスのアンジュー家に移ったが、その苛酷な支配に対し、1282年シチリア島民は反乱を起こした。その結果、シチリア島は反乱を助けたアラゴン家の支配下に入り、アンジュー家の支配するナポリ王国と分離することになった。

1282年3月30日復活祭の夕刻にパレルモでおこり、やがて全島に広まったこの対仏反乱は、「シチリアの晩鐘」と呼ばれる。

こうして中世末期のイタリアは、北の都市共和国(コムーネ)と南の集権国家という対比のなかで、ミラノ公国・ヴェネツィア共和国・フィレンツェ共和国・教皇領・ナポリ王国の5大勢力が分立する情勢を形づくった。なおナポリ王国は、15世紀半ばにアラゴン家により征服されるが、同世紀末には再生服をはかるフランスにより、イタリアは長い戦争(イタリア戦争 1494〜1559)に巻き込まれていく。

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