ポルトガルの東インド航路の発見
ヴァスコ・ダ・ガマのリスボン出航 (John Henry Amshewitz) ©Public Domain

ポルトガルの東インド航路の発見

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ポルトガルの東インド航路の発見

ポルトガルの東インド航路の発見

ヨーロッパ人の東アジア進出 ポルトガルの植民地と貿易 大航海時代 大航海時代地図
大航海時代地図 ©世界の歴史まっぷ

新航路開拓の事業を諸国に先駆けて進めたのは、イベリア半島のポルトガル・スペイン両国であった。イベリア半島ではキリスト教勢力により、イスラーム勢力を半島から駆逐するレコンキスタ運動( スペインとポルトガル)が11世紀ころから継続されてきた。半島西部でイスラームを駆逐し、いち早く中央集権化を完成させたポルトガルが、15世紀前半アフリカ西海岸の探検事業に乗りだした。航海王子と呼ばれたエンリケ航海王子(1394〜1460)は、サグレス岬に研究所をつくり、航海術や天文学の研究を進め、航海者を養成し、西アフリカ海岸探検・東インド航路探検に彼らをつぎつぎと派遣した。ポルトガルの船乗りは、マデイラ島・ヴェルデ岬をへて、1447年にはアゾレス諸島に達している。

1488年バルトロメウ・ディアス(1450頃〜1500)の船隊はアフリカの南端の南に達し、嵐の岬を発見した。これはのちにジョアン2世(ポルトガル王)(位1481〜1495)により「喜望峰きぼうほう」と名づけられ、アフリカを迂回する東インドへの航路発見の可能性がさらに高まった。

一方、アフリカ東海岸の情報も、1487年ジョアン2世(ポルトガル王)によって派遣された使節ペーロ・ダ・コヴィリャンとアフォンソ・ダ・パイヴァによってもたらされた。とっくにコヴィリャンはアデンからインドさらにアフリカ東岸のソファーラにいたり、カイロから報告書をジョアン2世に送っている。

1497年7月、3隻の船、168人の乗組員でリスボン港を出発したヴァスコ・ダ・ガマ(1469頃〜1524)の船隊は、喜望峰をまわり、アフリカ東岸マリンディで水先案内人をやとい入れ、インド洋を横切り、1498年5月ついにインド西海岸のカリカットに到達した。彼はムスリム商人の妨害をうけながらも、若干の香料・宝石の積荷をえて、1499年9月リスボンにもどった。乗組員の3分の2を失い、3隻の船隊のうち1隻を放棄するという航海であったが、インドにいたる航路が初めて開かれたのであった。この航路をへて運ばれる香料の価格は、アレクサンドリア・シリアをへて、イタリア諸都市が手に入れるものよりはるかに安く、しかも莫大な利益をえられることが判明したのである。
ヴァスコ・ダ・ガマ
ヴァスコ・ダ・ガマ ©Public Domain

前半生についてはほとんどわからない。アフリカ南端を経由して東アフリカから水先案内人を乗せて、1498年5月20日カリカットに到達した。ガマの航路図は1507年まで印刷されることはなかった。

近代ヨーロッパの成立年表

 イタリア・ルネサンス(14〜16世紀)
1450頃ヨハネス・グーテンベルク、活版印刷技術発明
1488バルトロメウ・ディアス、喜望峰到達
1492スペイン、グラナダを占領(レコンキスタ完了)
 クリフトファー・コロンブス、アメリカに到達
1494トルデシリャス条約(スペイン・ポルトガル)
1495レオナルド・ダ・ヴィンチ最後の晩餐」制作(〜1498頃)
1498ヴァスコ・ダ・ガマ、カリカットに到達
1517マルティン・ルター、九十五カ条の論題発表
1519フェルディナンド・マゼランの部下、世界周航(〜1521)
1521エルナン・コルテスアステカ帝国征服
 イタリア戦争(第三次イタリア戦争 〜1526)
1524ドイツ農民戦争
1529オスマン軍の第一次ウィーン包囲
1533フランシスコ・ピサロ、ペルーのインカ帝国征服
1534国王至上法発布(イギリス国教会成立)
 イエズス会設立
1541ジャン・カルヴァン、ジュネーヴ市政掌握
1543ニコラウス・コペルニクス『天球回転論(地動説)』刊
1545トリエント公会議(〜1563)
 16世紀後半、価格革命おこる
1555アウクスブルクの和議(ルター派の信仰認められる)
1558エリザベス1世の即位(〜1603)
1559カトー・カンブレジ条約(イタリア戦争終結)
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