4.ポリス社会の成立と発展 アクロポリス ポリスの成立
アクロポリス(Leo von Klenze画/ノイエ・ピナコテーク蔵)©Public Domain

ポリスの成立

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ポリスの成立
紀元前8世紀になると、ギリシア本土と小アジア西岸にポリスが生まれたことが確認できる。ポリスは海岸に比較的近い平野の丘を砦とし、祭祀の場所としてふもとの広場(アゴラ)を政治や経済活動の場とし、人々の居住する地域を城壁で囲んだ都市であった。
国家を形成するのは男性平民であり、そのなかに貴族と平民の別はあったが、ともに自由民として共同体を構成した。

ポリスの成立

ポリスの成立
オリエントと地中海世界 ©世界の歴史まっぷ

暗黒時代とはいえ、この時期にギリシア、エーゲ世界には鉄器が普及し、ギリシア語アルファベットも、フェニキア文字を手本に考案された。ギリシア人たちは混乱がおさまるうちに新しい社会の形態をつくりだしていった。

ホメロスの叙事詩が描いたギリシア社会

紀元前800年ころ成立したホメロスの叙事詩はトロイア戦争の結末とそのあとのギリシア人たちの帰還の運命をうたっているが、そこに描かれた社会や生活はミケーネ時代のものではなく(たとえば王は宮殿で華やかに暮らしてはおらず、その富も豊かではない。またミケーネ時代には知られなかった鉄器が用いられている。)、暗黒時代からホメロスの時代までの社会をうつしだしているとかんがえられる。
その社会では王は軍事指揮権を持ち、祭祀をつかさどる貴族たちの力が強く、王は強力な権力者ではない。貴族たちは血統をほこり、一族でグループをなし、多くの土地や家畜をもつ。戦争において貴族は敵と一騎打ちで戦い、英雄的なふるまいを栄誉と考える。平民たちは富や戦いで貴族に圧倒され、彼らに従っているが、裁判のときなどに貴族の裁判官たちが下す判決の可否を決定する権限を持ち、受動的なかたちではあるが民会らしいものに参与しているシーンもある。
したがってここにはミケーネ王国の社会とはかなり異なる、のちのポリスを思わせる社会が生まれつつあることがうかがえるのである。

ミケーネ文明の崩壊後人々は王や貴族に率いられ、一体となって行動しなくてはならなかった。貴族も平民たちを共同体の一員として不可欠のものと感じていたのであろう。このような条件がやがて定着して、成長してくるポリス社会のあり方に影響を及ぼしたと考えることができる。

ポリス

紀元前8世紀になると、ギリシア本土と小アジア西岸にポリスが生まれたことが確認できる。ポリスは海岸に比較的近い平野の丘をとりでとし、祭祀の場所として(アテネではアクロポリス)ふもとの広場(アゴラ)を政治や経済活動の場とし、人々の居住する地域を城壁で囲んだ都市であった。

ポリス:アテネなどではアクロポリスと呼んだが、別の呼び方をするポリスもあり、スパルタのように中心の丘をもたないポリスもあった。
城劇の外には村落と耕作地・牧草地などがあり、そこに農民の多くは住んでいた。

国家を形成するのは男性平民であり、そのなかに貴族と平民の別はあったが、ともに自由民として共同体を構成した。
市民のみが私有地(クレーロス)をもち、みずから農業をおこなった。市民の多くは奴隷を所有していた。ポリスは市民となる人々が意図的に成立させたもので、アテネのように散在して村落に住んでいた人々が貴族の指導下に集住シノイキスモス)して都市をつくるのが典型的なかたちであった。
ポリスはミケーネ王国などよりもさらに小さい国家で、最大の領域を有したスパルタでも日本の広島県程度、アテネは佐賀県程度の大きさしかなかった。

プラトンソクラテスの口をかりて、理想的なポリスは市民が互いに顔見知りであるくらいの規模がよく、仮の数字として市民5040(1x2x3・・・x7)人をあげている。

最初のポリスはおそらく小アジアに渡ったギリシア人によってつくられたと思われる。居住に適し、良港のある土地に定着しようとした場合、そこには先住民がいたであろうから、集住して防御的なポリスを営むことが不可欠であったろう。またすでにオリエントでは早くから都市国家が生まれており、ことに東地中海沿岸にフェニキア人が植民市を多数建設していたから、ギリシア人がそれにならったということも推定される。小アジアのポリス建設は速やかにギリシア本土に伝播したものと思われる。
しかしどこでも同じようなポリスが建設されたわけではない。最近の研究によってポリスの形態を分類してみると次のようになる。

ポリスの形態

1貴族中心のシノイキスモス(集住)アテネなど
2侵入したギリシア人のシノイキスモス。先住民を隷属させるスパルタ
3シノイキスモスの中心市が広い領域の村落を結合し支配するアテネ、スパルタ
4一定地域の小集落がそれぞれ独立したポリスとなるクレタなど
5集落群が穏やかな連合のかたちをとり、中心市が生まれないロクリスなど
6* 古い部族的な村落の集合にとどまりポリスを形成しないマケドニア、テッサリア、アカイアなど
* 6の地域のギリシア人はポリスが衰えてゆく時代に発展を始める。

ポリスは地中海世界に適合的な社会となり、その後もギリシア人の植民活動で増え続け、最大時には1500ほどであったと推定されている。
ポリスは独立の国家で、市民共同体であり、市民は守護神をまつり、共通の宗教意識を基とする強い連帯感をもち、他のポリスとは日常的に戦争をおこない、戦士共同体としての性格がこかった。しかしポリス間の経済的・文化的交流は盛んであり、ギリシア人であることの共通意識は極めて強かった。

ポリスはまず市民団であることが自覚されていた。彼らは自分たちの国を「アテネ人たち」「ラケダイモン(スパルタ)人たち」などという表し方で呼んだ。

それは、ギリシア人がみずからをギリシア語を話す「ヘレネス(英雄ヘレーンの子孫)」と自覚し、多民族を「バルバロイ(聞き苦しい言葉をしゃべる人)」と称して区別したこと、共通の神々と神話、ホメロスなどの詩、神託がえられる神域、競技大会などをどのポリスも共有したことなどに示される。
こうしてデルポイの神託には全ギリシアのポリスがこれを求めて集まり、オリンピア競技の開催中は休戦する習わしとなったのである。
また、有名な神域などを中心に幾つかのポリスが「隣保りんぽ同盟(アンピクティオニア)を結ぶこともあった。

隣保同盟(アンピクティオニア):デルポイの神託を中心とする同盟が有名で、スパルタをのぞくほとんどのポリスが参加していた。その他、エーゲ海域にはイオニア同盟があった。

デルポイの神託

デルポイは、ボイオティアの急峻きゅうしゅんな山地のポリスで、デルポイのアポロン神域は、すでに紀元前9世紀から崇められていた。しだいに神託の権威が高まり、ことに植民市建設がさかんになって出発前に適当な土地について尋ねることが習わしとなった。おそらく各ポリスから集まる人々から各地の情報がデルポイの祭祀にもたらされ、神殿は一種の情報センターでもあったと推測されている。神託は月1度厳かな儀式をもって巫女・シビュラが伝え、それを祭祀が通訳して依頼者に教えた。多くは謎めいた韻文いんぶんであった。デルポイには神託の成就に感謝するポリスからの奉献物が捧げられ、小アジアの異民族の王国からも依頼があった。

オリンピア競技

歴史上有名なこの競技は、ペロポネソス半島のエリスというポリスの宗教祭典として始まった。記録では紀元前776年が第1回で4年ごとに開かれた。広く年紀法としても用いられた(第90オリンピアードの第2年というふうに)。
競技は5日間で、種目は次第に増えた。競技が裸体でおこなわれたのはある時期だけのことであったらしい。
代表的な種目は、格闘技のパンクラティオン、短距離走、幅跳び、レスリング、円盤投げ、槍投げの五種競技(ペンタスロン)などであった。優勝者はリストに掲げられ、出身ポリスでは大変な名誉をもって迎えられた。しかし、競技に参加できたのは余裕のある貴族だけであった。オリンピア競技はローマ時代にも続き、最期の競技が行われたのは395年であった。

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