インド大反乱 大反乱とインド帝国の成立
インド大反乱 東インド会社のインド人傭兵をシパーヒーと呼び、約28万人が5万人弱のイギリス人将兵に率いられていた。1857年には、彼らが宗教上嫌う獣脂が弾薬包に塗られているという噂をきっかけに、待遇などの不満から反乱をおこし、デリーを占領した。反乱は北インド全域に波及し、広く民衆を巻き込む反英民族闘争へと発展した。©Public Domain

大反乱とインド帝国の成立

イギリスの支配に対するインド人の反感は、1857年シパーヒーと呼ばれた東インド会社のインド人傭兵がおこした反乱を機に、北インド全域に波及、広く民衆を巻き込む反英民族闘争へと発展したが、2年後鎮圧され、ムガル朝は滅亡。1877年ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることを宣言し、インド帝国が成立。名実ともにインドの植民地化は完成をみた。

大反乱とインド帝国の成立

イギリスの支配に対するインド人の反感はシパーヒー(セポイ)と呼ばれたイギリス東インド会社のインド人傭兵がおこした反乱を機にいっきに爆発した。シパーヒーはこれまで会社のインド侵略の先頭にたたされてきたが、白人の将兵との間の差別は大きく、これが不満の種となっていた。そして1857年、彼らが宗教上嫌う獣脂が弾薬包に塗られているという噂をひとつのきっかけとして、大反乱をおこすにいたった(インド大反乱)。反乱軍はデリーを占領して、すでに名のみの存在となっていた老齢のムガル皇帝を擁立した。反乱のニュースが伝わると、イギリスによって地位や権利を奪われた旧王侯とその部下、旧地主、生活に苦しむ農民・職人・小商人など広い層のインド人が、カーストや宗教の区別なくこれに加わり、反乱は中部・北部インドに波及した。しかし、反乱軍には統一がなく、さらに上層部の妥協などもあり、2年後には鎮圧された。この反乱の結果、ムガル皇帝は廃位され3世紀以上にわたって存続してきたムガル朝は滅亡した(1858)。「セポイの反乱」と呼ばれてきたこの大反乱には、旧支配者による旧体制復帰をめざす運動としての面が強かったが、各階層のインド人が広く参加したこの反英蜂起を民族運動の第一歩とみることもできる。

大反乱に動揺したイギリスは、いっそう強力な支配体制を確立する必要に迫られた。そして1858年にインド統治改善法を定め、それまでインド統治にあたってきた東インド会社を解散させ、インドをイギリス政府の直接の支配下においた。さらに1877年にヴィクトリア女王がインド皇帝(女帝)を兼ねることを宣言し、ここに正式にインド帝国が成立して、名実ともにインドの植民地化は完成をみた。帝国はイギリスの直轄地と藩王国 Indian State とから構成されていた。イギリスは保守的な旧王侯の国を残すという分断策により、インド人が団結して反抗することを防いだのである。

イギリス領の拡大地図
イギリス領の拡大地図 ©世界の歴史まっぷ

大反乱に加わった旧王侯

大反乱の指導者のひとりナーナー=サーヒブは、マラーター同盟の宰相(事実上の最高君主)の後継者であったが、養子であるという理由でイギリスからその地位を承認されなかった(失権の原則)。大反乱の勃発に際し、臣下のターンティア=トピーに擁立され戦い、のち敗走中にネパールで死んだらしい。ターンティア=トピーはすぐれた武将で、たくみな戦術を駆使してイギリス軍を苦しめたが、最後には捕らえられ絞首刑に処せられた。インドのジャンヌ=ダルクと呼ばれるラクシュミー=バーイーは、ジャーンシー王国の王妃であったが、夫の死後に直系の世継ぎがいないという理由によって、その王国はイギリス領に併合された。大反乱がおこるとこれに加わって各地を転戦し、グワリオル城陥落のとき戦死した。これら大反乱の主役たちは、今日、民族的英雄の列に加えられている。

藩王国:イギリスの統治下に内政権を与えられていた旧王侯(藩王、マハーラージャ)の国。大小550をこえ、全体でインドの面積の45%、人口の24%を占める。

植民地政策を進めるイギリスは、フランスのインドシナ経営に対抗してミャンマー(ビルマ)領有をくわだて、1824年以降3回にわたる戦争(イギリス=ビルマ戦争, 英緬戦争 Anglo-Burmese War, 1824〜26, 1852〜53, 1885〜86)によってコンバウン朝を倒し、全ミャンマーを併合してインド帝国の1州とした。またロシアの南下に備えるためアフガニスタンに出兵し(アフガン戦争 Afghan War, 1838〜42, 1878〜80, 1919)、さらにチベットに出兵してラサ条約を結びこれを従属下においた(1904)。スリランカ(セイロン)には16世紀にポルトガル、17世紀にオランダが進出したが、18世紀にイギリスがオランダを駆逐して、1815年以後、全島がイギリス領となった。

インド綿布

インドは木綿の原産地であり、綿布は古代からインドの輸出品として知られていた。ヨーロッパ勢力の来航後は西方向けの主要な輸出品となり、キャラコ(初期の輸出港カリカットの名にちなむ)、モスリンといった薄地の上質綿布が、ヨーロッパの人々に愛好された。イギリスでは東インド会社によるインド綿布の輸入が急増したため、18世紀初めに国内の毛織物産業を保護する必要から、その輸入と使用が制限されたり禁止されたりしている。イギリスの産業革命と、その結果としての機械織綿布の大量生産は、インドの都市の綿工業に破滅的打撃を与えたが、インドの農村では、農民の日常の衣類となる厚手の素朴な手織り綿布が、都市におけるこうした変化とは関係なく生産され続けた。なお、都市においても、富裕層が儀式などに用いる最高級の手織物の生産は維持された。