奴隷王朝 マムルーク朝 ナスル朝 1バグダードからカイロへ 3世紀末のイスラーム世界地図
13世紀末のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ

バグダードからカイロへ

13世紀初め東方ではモンゴルの勢力が台頭し、フレグの率いるモンゴル軍は西アジアに進出して、1258年にバグダードを陥れ(バグダードの戦い)、アッバース朝は滅亡した。フレグはイランとイラクを領有しイルハン国を樹立した。一方、アイユーブ朝第7代スルタンのサーリフは、マムルーク軍団を組織したが、その勢力は強大となり1250年、アイユーブ朝を倒してエジプト、シリアにマムルーク朝を建国した。

バグダードからカイロへ

イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

シリアのザンギー朝(1127〜1222)からエジプトに派遣されたクルド人の将軍サラディンサラーフッディーン)は、ファーティマ朝の宰相となって実権を握り、アイユーブ朝(1169〜1250)を開いた。

12世紀末のイスラーム世界地図
12世紀末のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ

サラディンはアッバース朝カリフの宗主権を承認し、スンナ派の信仰を復活してイスラーム世界の統一をはかった。また、エジプトにイクター制を導入して軍政を整えたサラディンは、対十字軍戦争を積極的に推し進め、1187年にはティベリアス湖西方のヒッティーンの戦いで十字軍を破り、約90年ぶりに聖地エルサレムを奪回した。
これに対しイギリスのリチャード1世(イングランド王)(1189〜1199)は、聖地の再征服をめざして第3回十字軍をおこしたが成功せず、サラディンと和して帰国した。

エルサレム

エルサレム(アラビア語ではクドス 「聖地」の意味)は、ユダヤ教徒にとってはソロモンによる神殿建設の場であり、キリスト教徒にとってはイエスの死と復活の舞台であった。またイスラーム教徒にとっても、エルサレムはメッカ、メディナにつぐ第3の聖地であった。それは、預言者ムハンマドが天馬に乗ってメッカからエルサレムに夜の旅をし、そこから天に昇って神にまみえたとする伝説にもとづいている。ムハンマドは、「岩のドーム」の中央にある灰白色の聖石から天に旅立ったとされる。

13世紀初めになると東方ではモンゴルの勢力が台頭し、フレグの率いるモンゴル軍は西アジアに進出して、1258年にバグダードを陥れた(バグダードの戦い)。これによってアッバース朝は滅亡し、600年にわたって続いたカリフ制度もいったん消滅した。フレグはイランとイラクを領有し、イルハン国を樹立した。

13世紀末のイスラーム世界地図
13世紀末のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ

建国当初のイルハン国はシリアへの進出をはかってエジプトのマムルーク朝と対立したが、ガザン・ハンの時代にイスラーム教を国教とし、みずからもこれに改宗した。彼は、人頭税・家畜税を主とするモンゴル式税制を、地租(ハラージュ)を中心とするイスラーム式税制に改め、またイクター制を導入して農村の復興に努めた。ガザン・ハンはイスラーム教を熱心に保護する政策をとり、これによって異民族モンゴル人の支配のもとで、イラン・イスラーム文明が花開いた。

アイン・ジャールートの戦い

1258年にバグダードを落としたモンゴル軍は、そのまま西進を続け、アレッポ・ダマスクスを攻略すると、さらに南下してエジプトに進撃する勢いを示した。これに対してエジプトのスルタンは、バイバルスを先鋒隊の司令官に任じてモンゴル軍迎撃の態勢を整えた。イスラーム世界の命運をかけた戦いは、1260年6月、パレスチナの小村アイン・ジャールートでおこなわれた。この戦いに圧倒的な勝利を収めたマムルーク軍は、エジプトの新政権がイスラーム世界の守護者であることを内外に広く印象づけたのである。

一方、アイユーブ朝第7代スルタンのサーリフ(スルタン)(在位:1240〜1249)は、トルコ人奴隷兵を数多く購入してマムルーク軍団を組織したが、やがてその勢力は強大となり、1250年、アイユーブ朝を倒してエジプト、シリアにマムルーク朝を建国した。
しかし、シリアにはまだアイユーブ家の勢力が残存し、またエジプトではアラブ遊牧民が異民族の政権に対して大規模な反乱を起こしたから、成立当初のマムルーク政権は不安定な状態にあった。
第5代スルタンに就任したバイバルス(1260〜1277)は、シリアに侵入したモンゴル軍を撃退するとともに、アッバース朝カリフの後裔こうえいを新しいカリフとしてカイロに擁立し、さらにメッカ、メディナの両性都を保護下に入れることによって、マムルーク朝国家の基礎を確立した。

マムルーク朝の最盛期は、ナースィル・ムハンマド(位1293〜1294, 1299〜1309, 1310〜1341)の時代に訪れた。
イクター制の再編成によってマムルーク体制を整えたスルタンは、運河の開削・整備によって農業生産の向上をはかるとともに、インド洋と地中海を結ぶ商業路を支配下において東西貿易の利益を独占した。首都カイロにはモスクや学院が次々と建設され、モンゴル軍によって破壊されたバグダードにかわって、カイロがイスラーム文化活動の新しい中心となった。
しかし15世紀半ば以降になると、たび重なるペストの流行とスルタン位をめぐるマムルーク軍閥の抗争によってマムルーク朝はしだいに衰えた。

イクターとは、国家から授与された分余地、あるいはそれからの徴税権を意味する。イクター制はブワイフ朝時代のイラクに始まり、セルジューク朝のとき西アジア各地に広まった。イルハン朝、デリー・スルタン朝、ティムール朝オスマン帝国、サファヴィー朝でも、本質的にこれと同じ制度がおこなわれた。