1920年代の国際関係
The Gap in the Bridge. アメリカの不在の国際連盟の風刺画。 米がアーチの欠けているキーストーンとして描かれている。葉巻をくわえ富を楽しんでいるアメリカ(アンクルサム)。(画:Leonard Raven-Hill/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

1920年代の国際関係

ヴェルサイユ条約の発効とともに発足した国際連盟は、1920〜23年に旧敗戦国であるオーストリア・ハンガリー・ブルガリアを、26年にはドイツの加盟を認め、ヨーロッパでの基盤を拡大した。難民救済事業や少数民族保護、大戦の各国捕虜の本国帰還促進支援などの活動もそれなりに成果をあげた。

1920年代の国際関係

ヴェルサイユ条約の発効とともに発足した国際連盟は、1920〜23年に旧敗戦国であるオーストリア・ハンガリー・ブルガリアを加盟させ、さらに1926年にはドイツの加盟を認めた結果 、ヨーロッパでの基盤を拡大することができた。国際連盟が行動できる範囲は限られてはいたが、発足早々の1920年にはスウェーデンとフィンランド間のアハベナンマー(オーランド)諸島帰属をめぐる対立の調停に成功し、22年にはオーストリアの、さらに翌年にはハンガリーの財政破綻に対する国際的支援体制の組織化に努めるなど、一定の役割を果たした。紛争防止活動のなかでもっとも大きな成果は、25年ギリシアとブルガリア間の戦争の危機を制裁発動を警告して回避させた例である。そのほか、その後の国際的人道支援の基礎となった各種の難民救済事業や少数民族保護、大戦の各国捕虜の本国帰還促進支援などの活動もそれなりに成果をあげた。

ドイツは加盟と同時に、常任理事国になった。

難民救済事業

難民救済事業のなかではとくにナンセン=パスポートは成功例のひとつである。当時ロシア革命や東欧諸国での内戦から逃れ、あるいはそれぞれの政府によって追放されて、国籍を失い、旅券をもたない難民が国際問題となっていた。北極探検家として知られるノルウェーのナンセン Nansen (1861〜1930)は、 第一次世界大戦 後、赤十字や国際連盟での人道的活動で活躍していたが、これら難民に対し連盟が発行するパスポートを与えて保護することを提案して、実現させた。このパスポートは彼の名にちなんでナンセン=パスポートと呼ばれ、1922年だけで150万部も発行された。なお、同年ナンセンはノーベル平和賞を授与された。

しかし、1920年代前半は講和条約の残された課題の処理がなお引き続いていた。たとえば、最終的な賠償額確定をめぐる連合国 内部での調整のため、1920年初めから22年末までの3年間で、英・仏・イタリア・ベルギーの首脳会談が23回も開かれる有様であった。21年のロンドン会議でようやく賠償総額を1320億金マルク と確定し、ロンドン最後通牒によってドイツ側に認めさせた。とはいえ、その履行をめぐって、フランス・ベルギーなどとドイツとの間の対立関係はおさまらず、手段を変えた大戦の継続といわれる緊張状況が続いた。1923年1月には、フランスとベルギーはドイツの石炭・コークス引き渡し量不足を理由に、ドイツの石炭生産の中心地で、有数の重工業地域であったルール地方に軍を進駐させて、直接賠償の取りたてに乗りだす事態になった(ルール占領)。ドイツ側の抵抗が続くなか、24年になってドーズ案 Dawes による賠償支払い問題の一応の決着がはかられたが、こうした状況のもとでは国際連盟の政治的活動の余地はせばめられた。さらに23年、アドリア海の入り口に位置するギリシア領のコルフ島でイタリア軍人が殺害された事件を理由に、イタリアがコルフ島を占拠した事件でも、イタリアは連盟の仲裁を拒否したため、英・仏をまじえたパリの大使会議で解決策が決定した。これは、大国が関与した場合、その大国の同意がなければ連盟も行動できなかった現実を映しだした。

当時マルクは金との兌換だかん性のない紙幣マルクであったので、算定には戦前の金マルクが使われた。1金マルクは5/21金ドル、純金0.358423gに相当した。
広告