1848年の革命

二月革命をきっかけにヨーロッパ各地で民族運動が活発化し、ポーランドの独立運動(失敗)・ハンガリーの民族運動(失敗)・ベーメンの民族運動(失敗)・イギリスのチャーティスト運動(弾圧される)・サルデーニャ王カルロ=アルベルトの対澳宣戦・イタリアの「青年イタリア」ローマ共和国建設(失敗)・フランクフルト国民議会解散(自由主義的統一挫折)など、「諸国民の春」と呼ばれる状況となった。

1848年の革命

1848年の革命地図
1848年革命地図 ©世界の歴史まっぷ

イギリス

イギリスではフランス二月革命と同様、選挙法改正の運動が高揚した。1832年の第1回選挙法改正では腐敗選挙区が廃止されたが、この改正運動に協力した労働者には選挙権が与えられなかった。そのため1830年代後半からオコナーラヴェット Lovett (1800〜77)を指導者とするチャーティスト運動 Chartist がおこり、6カ条の要求からなる「人民憲章 People’s Charter 」を掲げ、政治闘争を開始した。

ラヴェットはオコナーが暴力派に属するのに対して穏健派に属し、1840年代以降むしろ教育運動に専念した。
人民憲章:「6カ条の要求」とは①成人男性普通選挙制、②無記名投票、③1年任期の議会、④議員の財産資格の廃止、⑤歳費の支給、⑥10年ごとの国勢調査によって調整される選挙区、の6つである。

二月革命の影響をうけて1848年4月ロンドンのケニントン広場で数万人にも達する大集会が開かれたが、政府は隣国のフランスの二月革命が同じ選挙法改正運動をきっかけとしたことから警戒心を強め、集会前夜戒厳令を布告し、全国の警察と軍隊を動員してこの運動の封じこめをはかった。デモ隊の行動は規制され、570万人の署名と国民請願書のみが下院に届けられた。しかし請願は拒否され、内部対立や運動の急進化による国民の離反、指導者の逮捕・投獄によって、チャーティスト運動はしだいに停滞を余儀なくされた。イギリスのこれ以降の選挙法改正は資本家や地主の指導のもとで進められていく。

チャーティスト
チャーティストの集会(ロイヤル・コレクション蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ケニントン広場での集会。これを最後にチャーティスト運動は停滞した。写真の中にはわずかではあるが女性の姿が見える。

ドイツ

ドイツでは、1848年3月、ベルリンにおいて暴動が発生したため(ベルリン三月革命)プロイセン国王は譲歩し、自由主義内閣が成立した。しかしフランクフルト国民議会の長期化、フランスの六月暴動の鎮圧など8月をさかいに反動化が進み、11月制憲議会も弾圧されて革命は失敗に終わった。議会の同意を必要としない国王の無期限議会解散権や戒厳令の施行を定めた欽定憲法きんていけんぽうの草案が発表され、わずかな修正をへて最終的には1850年に成立した。一方、フランクフルト Frankfurt では地主・大学教授・資本家など自由主義者を中心にして全国から「統一と自由」を求めて国民会議が48年5月開催されたこれをフランクフルト国民議会という。この会議ではプロイセン国王を統一国家の王とする小ドイツ主義とオーストリアのハプスブルク家を王とする大ドイツ主義が対立し、紛糾を続けた。48年12月にドイツ国民の基本権を、49年3月にはドイツ国憲法を制定し、さらに小ドイツ主義の立場が採択されてフリードリヒ=ヴィルヘルム4世(プロイセン王) Friedrich Wilhelm Ⅳ (位1840〜61)にドイツ国王に即位するよう要請したが、彼は革命派からは王冠はうけられないとしてこれを拒否したため行き場を失い、49年6月になると武力弾圧によって解散させられた。

オーストリア

オーストリアではウィーンにおいて三月暴動が発生し(ウィーン三月革命)、ウィーン体制の象徴的人物であったメッテルニヒが失脚し、イギリスに亡命した。宮廷は困惑し、憲法制定を発布し自由主義的改革を約束したが、反動勢力の成功を背景に反撃に転じて10月までには運動を鎮圧した。

ハンガリー

さらにオーストリアの支配下であったハンガリーでは、1849年4月になってブダとペストにおいてコシュート Kossuth (1802〜94)が反乱をおこし、ハプスブルク家からの離脱をはかったが、ロシア軍の介入もあって失敗に終わった。

ロシアは当時反革命勢力の中心だったので、「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれた。

ベーメン(ボヘミア)

またベーメン(ボヘミア)のプラハにおいてはパラツキー Palacky (1798〜1876)が指導するスラヴ民族会議が開催されたが、このナショナリズム運動も多民族国家の崩壊を恐れるオーストリアの介入によって解散させられた。

イタリア

イタリアでは統一をめざすリソルジメント運動 Risorgiment が各地で高揚することになった。北イタリアではオーストリアがヴェネツィアやロンバルディア地方というイタリア人居住地区を支配していたので、これに対する抵抗運動が激化した。サルデーニャ王国のカルロ=アルベルト Carlo Alberto (位1831〜49)は国王即位時から自由主義者として知られ、国民の期待もあって1848年、北イタリアの統一をめざしてオーストリアと開戦した。しかし、ラデツキー Radetzky (1766〜1858)率いるオーストリア軍にノヴァラの戦い(49年3月)で敗北し、近隣諸国の支援もなかったため彼は国王の地位を捨てざるを得ず、統一は実現できなかった。

ラデツキーの功績を記念して、ヨハン=シュトラウス1世(父 Johann Strauβ 1804〜49)が「ラデツキー行進曲」を作曲した。

一方、マッツィーニ率いる青年イタリアは49年ローマで蜂起し、ローマ共和国の建国を宣言したが、反動化したローマ教皇の要請によって出動したフランス軍のため、この政府は崩壊した。

ポーランド

その他、ポーランドではロシアの支配からの自立をめざす独立運動が46年クラクフでおきたが、ロシア・オーストリア・プロイセンの3国軍に鎮圧された。

スペイン

また、スペインでは、リェーゴ以来の自由主義者と反動勢力との内戦であるカルリスタ戦争(第1次1833〜39, 第2次46〜60、第3次72〜76)が継続していた。

二月革命をきっかけにヨーロッパ各地で民族運動が活発化し、「諸国民の春」と呼ばれる状況となった。

参考

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