ラタナコーシン朝 フランス領インドシナ連邦 阮朝 オランダ領東インド 諸島部の植民地化 マレー連合州 東南アジアへの侵略と統治地図
東南アジアへの侵略と統治地図 ©世界の歴史まっぷ

諸島部の植民地化

  • タイ:独立を維持
  • ビルマ・マレー半島:イギリス
  • インドネシア:オランダ
  • ベトナム・ラオス・カンボジア:フランス
  • フィリピン:スペイン → アメリカ

諸島部の植民地化

東南アジアにおけるオランダ東インド会社の経営方針は、ポルトガルと同様に貿易独占であり、香辛料・砂糖・コーヒーなど輸出用作物の栽培・供出の強制や廉価買い上げで農民を苦しめ、しばしば彼らの反乱をまねいた。しかし会社は積極策をとり続け、18世紀半ばまでにジャワ全島の征服を完了している。しかし、その後会社は、軍事費の増大、内部の腐敗、ヨーロッパ諸勢力との競争などによって疲弊し、フランス革命軍によりオランダ本国が占領されていた1799年に倒産した。ジャワはこうしてオランダの直接統治下に入ったが、ヨーロッパでこの国と戦うイギリスは、ラッフルズ Raffles (1781〜1826) の提案を採用してジャワに侵攻し、1811年にこれを占領した(1816年に返還)。

ラタナコーシン朝 フランス領インドシナ連邦 阮朝 オランダ領東インド 諸島部の植民地化 マレー連合州 東南アジアへの侵略と統治地図
東南アジアへの侵略と統治地図 ©世界の歴史まっぷ

ジャワ島住民のオランダに対する大反乱(1825〜30) のあと、1830年に東インド総督に就任したファン=デン=ボス Van den Bosch (1780〜1844)は、オランダ本国政府とバタヴィア(総督府)政庁(オランダ政庁)の財政危機を救うため、強制栽培制度の拡大復活を含む統制経済を実施した。これはコーヒー・砂糖キビ・藍・タバコなどの輸出用作物を指定し耕地の一部に強制的に栽培させる制度であるが、これにより稲作が損なわれ、農民を困窮させたため、本国からも強い批判がでて、1860年代から徐々に廃止された。この間、1850年に貿易の政府独占は廃止され、自由経済が採用されたため、これ以後は私企業によるプランテーション経営が発達することになった。また植民地経営はスマトラやボルネオなどジャワ島周辺の島々にまで広げられた(オランダ領東インド)。

ラッフルズ:彼は1811〜16年にジャワ島の副総督であった。1819年にわずかの住民しか住んでいなかったシンガポール島を獲得し、その後の発展の基礎を築いた。

ジャワ戦争、あるいは指導者の名をとってディポネゴロ戦争と呼ばれる。

フィリピン諸島へは、1521年にマゼランの船隊がヨーロッパ人として初めて来航した。スペインはやがてこの地の支配をもくろみ、1571年にルソン島のマニラ Manila に根拠地を移し、ここを中心に植民地の経営と対アジア貿易をおこなった。スペインにとって中国との貿易は重要であり、メキシコから運ばれた銀と中国船で運ばれた生糸・絹織物・陶磁器・茶などがマニラにおいてさかんに取り引きされた日本船の来航も多く、マニラ城外の日本町は一時3,000人という東洋日本町としては最多の居留者でにぎわった。フィリピン人に対するスペイン人の支配・搾取は苛酷におこなわれたが、それと同時にカトリック教の布教活動も積極的に進められ、政教一体の支配体制のもとで改宗の強制などもみられた。その結果、キリスト教はルソン島をはじめとする諸島に急速に広まったが、南部のミンダナオ島などに住むイスラーム教徒(モロ族 Moro)は、これに頑強に抵抗した。スペイン支配下のフィリピン経済は長く停滞の状態が続いたが、19世紀に入ると砂糖・マニラ麻・タバコなどの輸出が増え、各地の開発もしだいに進んだ。また自由貿易を求める欧米諸国の圧力をうけて、1834年にマニラを開港している。

18世紀末からマレーに進出したイギリス東インド会社は、オランダ勢力を駆逐してペナン(1786)・シンガポール(1819)・マラッカ(1824)をつぎつぎに獲得し、これら3地方を一括して海峡植民地 Straits Settlements とした(1826)。この植民地は、1858年の東インド会社解散にともないイギリスの直轄植民地となった(1867)。イギリスはその後マレー半島内部の諸侯国(スルタン領)に干渉を加え、これを保護国化してマレー連合州を組織させ(1895)、またブルネイ(1888年保護領化) やマレー半島内の非連合州とともにシンガポール駐在の海峡植民地知事の統轄下においた(1909)これらの地域は全体でイギリス領マラヤとも呼ばれる。イギリスがこの地域でこうした積極策にでた理由のひとつは、競争相手であるヨーロッパ諸国に対抗するためでもあり、もうひとつはこの地のすずとゴムの資源を確保するためである。 19世紀に入るとマレー半島ではまず錫の採掘が、同世紀末からはゴムのプランテーション栽培がさかんになるが、それにともない中国人やインド人の労働者が多数移住した。この地域の今日の複雑な民族構成はその結果である。なお1824年に結ばれた英蘭協約は、ナポレオン戦争後のこの地域の勢力範囲を確定したものとして重要である。これによりマラッカ海峡を境界線として北側のマレー半島がイギリスの勢力圏、南側のジャワ島・スマトラ島などがオランダの勢力圏となった。

ボルネオ北部にあったブルネイ王国は、19世紀半ば以降に、イギリス人ブルックがたてた王国とイギリス北ボルネオ特許会社に領土の多くを奪われ、1888年にこれらの地域とともにイギリスの保護下に入った。
広告