東西を結ぶムスリム商人 海の道の発展(10〜17世紀) 地図 海の道の発展地図(10〜17世紀)
海の道の発展地図(10〜17世紀)©世界の歴史まっぷ

東西を結ぶムスリム商人

ムスリム商人はペルシア湾岸の港市を拠点としてインド洋・東南アジアの交易に従事し、13世紀以後、ムスリム商人により飛躍的に発展した交易とイスラーム神秘主義教団の活動が結びついて、インド・東南アジアにイスラーム教が普及。東南アジアでは、島嶼部の沿岸地帯でイスラーム教を受け入れた小王国が現れた。

東西を結ぶムスリム商人

ムスリム商人はペルシア湾岸の港市を拠点としてインド洋・東南アジアの交易に従事した。13世紀以後、ムスリム商人により飛躍的に発展した交易にイスラーム神秘主義教団の活動が結びついて、インド・東南アジアにイスラーム教が普及しはじめた。東南アジアでは、島嶼部の沿岸地帯でイスラーム教を受け入れた小王国が現れた。

東西を結ぶムスリム商人 海の道の発展(10〜17世紀) 地図 海の道の発展地図(10〜17世紀)
海の道の発展地図(10〜17世紀)©世界の歴史まっぷ

マラッカ海峡はインド洋と南シナ海の接点として重要な役割を果たすようになった。特に、マレー半島の南海岸で海峡の中央部に位置する港町マラッカ(ムラカ)が中継貿易で繁栄した。ジャワ東部のマジャパヒト王国からの圧力を抑え、15世紀前半には鄭和の艦隊の保護を受けつつタイのアユタヤ朝の支配を脱し、その後はインド洋方面の交易を進めると同時にイスラーム教を受け入れ、本格的なイスラーム王国に成長した。東南アジアのイスラーム化はマラッカ王国を布教の中心として進められ、交易ルートに乗って島嶼部全域に拡大した。

現在のマレーシア・インドネシア・ブルネイを中心にフィリピン南部までイスラーム教が拡大した。インドネシアは現在、世界最大のムスリム人口を有する国である。その中でインドネシアのバリ島はジャワ・ヒンドゥー文化が存続した。

1511年、ポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケがマラッカ王国を占領して、ポルトガル領マラッカを成立させた。ポルトガルは武力での交易独占、さらには関税による利益の獲得をはかったが、航路の拡散やコショウ栽培地の拡大をもたらし、各勢力が分立する結果となった。
マレー半島南部のジョホール王国、ジャワ島西部のバンテン王国、ジャワ島中部・東部のマタラム王国、スマトラ島北端のアチェ王国、スラウェシ島南部のマカッサル王国などのイスラーム国家が香辛料交易で栄えた。

ムスリム商人によるインド洋交易の西に拠点になったのがアフリカの東海岸であった。10世紀以後には、マリンディ、モンバサ、ザンジバル、キルワなどの海港都市でのムスリム商人の活動が活発となった。特に金・象牙・奴隷の取引が行われた。この海岸地帯では、アラビア語の影響を受けたバントゥー語などからスワヒリ語が商業上の共通語として成立し、内陸部へも普及した。

インド洋と地中海を結ぶ交易は、当初、ペルシア湾からバグダードを経由するルートが中心であった。そのためバグダードはおおいに繁栄した。しかし、10〜11世紀にバグダードが政治的に混乱状態に陥り、衰退すると、紅海ルートが交易の中心となった。紅海ルートは、イエメンのアデンを起点として紅海西岸のアイザーブから陸路で上エジプトのクースへ行き、ナイル川を経て回路に入り、地中海沿岸のアレクサンドリアにいたるものであった。これにより新たに交易の中心となったのが、カイロである。
カイロ
1800年代後半のエジプトのカイロにおける砦と墓 ©Public Domain

方形の城壁に囲まれたカイロは、南北に走る大通りを中心とし、14〜15世紀には1万2000の商店が軒を連ねていた。

地中海世界の交流 産業と経済の発展 ムスリム商人 ムスリム商人のおもな貿易路と主要取引品地図
ムスリム商人のおもな貿易路と主要取引品地図 ©世界の歴史まっぷ

ムスリム商人は、インド・東南アジアで産出されたコショウやナツメグなどの香辛料、乳香にゅうこう白檀びゃくだんなどの香料、マングローブやココヤシなどの木材、および中国で産出された絹織物・陶磁器などをインド商人と連携して購入した。交易品はダウ船に積載されて、インド洋から紅海ルートで、カイロ・アレクサンドリアに運ばれた。

ダウ船とジャンク船

ダウ船は、ムスリム商人によるインド洋交易で活躍した。逆風でも進める帆をもち、チークやココヤシの木材に穴を開けて紐で縫い合わせたものを、木釘で船体に打ち付けて水漏れ防止に瀝青れきせい鯨油げいゆを塗った縫合船である。最大のダウ船は1隻で、ラクダ600頭で運ぶ180トンの積荷の運搬が可能であったという。

ジャンク船は中国で作られた蛇腹式の帆をもつ外洋船である。松や杉を材料とした竜骨を持つ構造船で、中は隔壁によって分けられ、堅固な側板を備えていた。10〜11世紀からこのジャンク船に羅針盤を利用して外洋に出発した。泉州で発掘された宋代のジャンクは長さ24m、幅9mで2本の帆柱を備えていた。約200トンの積載が可能であったと推定されている。船は次第に大型化し、鄭和の南海遠征の時の最大の「宝船」は長さ約152m、幅62mにおよび、少なくとも400〜500人、多ければ1000人の乗組員がいたと推定されている。

東西交易の利益を独占したのがアイユーブ朝マムルーク朝のエジプトであった。その王朝の保護のもとで遠隔地交易をになったムスリム商人グループをカーリミー商人と呼ぶ。彼らはアデンの港で東方の物産を買い付け、カイロに運ぶとともに、アレクサンドリアの商館でイタリア商人に売却した。アイユーブ朝の建国者サラーフッディーンはカーリミー商人の取引に課税して国庫収入の増大をはかると同時に、手厚い保護を与えた。1174年には兄トゥーラーンシャーを派遣してアデンを攻略し、1183年にはシリア南部の十字軍勢力(第2回十字軍)による紅海進出を打ち破り、紅海からキリスト教徒・ユダヤ教徒の商人を締め出す政策を実行した。これにより後悔はカーリミー商人の海となった。カーリミー商人は各地に代理人の派遣、商館の建設を進めて交易活動を拡大し、砂糖工場・金融を営むことで巨万の富を築く一方で、モスクや学院の建設・寄進にも熱心であった。彼らの活躍は1438年のマムルーク朝スルタン・アシュラフ・バルスバーイ(在位1422〜1438)による砂糖や香辛料などの専売制実地まで続いた。

金を求めるムスリム商人は塩を対価として、北アフリカからサハラ砂漠を縦断して内陸アフリカにいたる交易を行なっていた。エジプトが国際的な交易の拠点となると、15世紀にはこの南北の交易路が東側に移動し、金・奴隷と馬・布地の交換が進められた。

サハラ交易の主導権を取り戻すためにマラケシュを首都とするサアド朝は、1591年に火器で武装した軍隊を送り、ソンガイ王国を崩壊させた。

カイロを中心とするエジプトの繁栄を支えたもう一つの要素が豊かな農業生産であった。従来からナイル川の沃土による豊かな小麦の収穫に加えて、綿・ゴマ・サトウキビなどの食品作物が重要なものとなった。サトウキビを原料とする砂糖は輸出品として各地で珍重された。マムルーク朝の時期に、黒砂糖を精製した白砂糖、そして最高級品であった氷砂糖の生産も行われるようになり、エジプトはイスラーム世界随一の砂糖生産国に変貌した。カイロはイスラーム世界の経済と文化の中心地として繁栄した。

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