明朝の朝貢世界
明朝の朝貢世界 ©世界の歴史まっぷ

明朝の朝貢世界

  • 琉球王国:尚巴志王が三山統一。中国文化を取り入れる一方で朝貢貿易をおこない、東シナ海と南シナ海を結ぶ交易の要となる。
  • マラッカ王国:アユタヤ王国に従属していたが鄭和の南海遠征の拠点となり、国王がイスラームへ改宗、独立。ジャワのマジャパヒト公国にかわって東南アジア最大の貿易拠点となる。
  • 朝鮮:李氏朝鮮の太宗(朝鮮)は明の制度を取り入れ集権国家体制を整え、仏教勢力を排除して朱子学を国家の指導理念とした。
  • 日本:明朝は室町時代、第3代将軍足利義満に国書を与え「日本国王」に封じ、勘合貿易を開始し、倭寇の活動が減少した。
  • ベトナム:永楽帝が一時支配。陳朝の黎利が明を破り黎朝を開いて、あらためて明と朝貢関係を結ぶ。
  • モンゴル:モンゴル高原に退いた北元は、洪武帝により滅び、靖難の役でモンゴルに対する圧力が弱まると東に北元系のタタール部、西北にオイラト部がおこった。

明朝の朝貢世界

北元 朝貢貿易 14世紀の東アジア 明(王朝) 明初の政治 アユタヤ朝 朝貢体制の動揺 明代のアジア(15世紀半ば) 地図
明代のアジア(15世紀半ば) 地図 ©世界の歴史まっぷ

鄭和の南海遠征もあって、明に対する朝貢貿易は、東アジアからインド洋にわたる広範囲にかけて活発に行われた。

琉球

明朝への重要な朝貢国のひとつが琉球りゅうきゅうであった。現在の沖縄県を中国で「琉球」と呼ぶようになったのは洪武帝時代からである。当時の琉球には北山ほくざん中山ちゅうざん南山なんざんの3国が鼎立しており、それぞれが明に朝貢していた。15世紀初めに中山王尚氏しょうし(第一尚氏 尚巴志王)が他の2国を統合(琉球王国)して琉球の代表となり、中国文化を取り入れる一方で、明への朝貢を続け、それによって得た物資を用いて他国との交易を行なった。その結果、琉球は東シナ海と南シナ海とを結ぶ交易の要となっていった。

マラッカ王国

14世紀末ころマレー半島西南部に建国されたマラッカ王国は、当時タイのアユタヤ王国に従属していたが、15世紀前半に鄭和の南海遠征が行われるとその拠点となり、15世紀半ばには国王がイスラーム教へ改宗してイスラーム世界との結びつきを強めていった。その後マラッカ王国はアユタヤ王国から独立し、明への朝貢貿易を継続しながら、インド洋と東南アジアとの中継地点である地の利を活かし、15世紀中頃以降16世紀初期にポルトガルの進攻を受けてを受けて滅亡するまでの間、ジャワのマジャパヒト公国にかわって東南アジアにおける最大の貿易拠点となった。

朝鮮

李氏朝鮮では15世紀初めの第3代太宗(朝鮮)の時、明の制度を取り入れて集権官僚国家体制を整えた。さらに高麗時代からの仏教勢力を排除して朱子学を国家の指導理念とした。次の第4代世宗(朝鮮)は、当時さかんとなった金属活字による印刷術の発達によって、高麗王朝の歴史書である『高麗史』をはじめとして多くの書籍を出版させた。また世宗は、朝鮮語を漢字で表記するのには不便があったので、1446年、新しい音標文字である訓民正音(19世紀以降ハングル文字と改称)を制定し、文化の普及と発展に役立てた。

太宗(朝鮮)の命によって1403年に鋳字所が作られ、多量の銅活字が製造され、書物の印刷がさかんに行われた。日本へは豊臣秀吉の朝鮮侵略の際持ち帰られ、慶長活字版や徳川家康の駿河版の基となった。

日本

明朝は日本の室町幕府に対して倭寇の取り締まりを要求した。さらに明は1402年、第3代将軍足利義満に国書を与え、「日本国王」に封じた。これを受けて義満は、1404年に遣明船を派遣して勘合貿易を開始した。このため、倭寇の活動は減少した。

ベトナム

ベトナムでは陳朝が国内の混乱で滅ぶと、永楽帝は陳朝復興を口実に軍を派遣してベトナムを一時支配した。しかしベトナム人は抵抗を続け、陳朝の武将であった黎利れいりは明軍を破ることに成功し、1428年ハノイ東京トンキン)において即位し(太祖 位1428〜1433)、黎朝れいちょう(1428〜1527, 1532〜1789)を開いて国号を大越だいえつとした。明から独立した黎朝ではあったが、改めて明と朝貢関係を結び、朱子学をはじめとして明の制度を取り入れ、支配を確かなものとしていった。

モンゴル

1368年、洪武帝によって中国を追われた元朝の最後の皇帝である順帝(トゴン・テムル)は、モンゴル高原に退き、その後、一族は北元(1371〜1388)として残った。北元は、高麗や雲南地方に残るモンゴル勢力と連絡して中国の奪回をはかった。しかし順帝の子昭宗(アユルシリダラ)のとき、洪武帝の攻撃を受けて1388年に滅んだ。
その後、明の内部では靖難の役がおこり、そのためモンゴルに対する圧力が弱まると、モンゴルでは東に北元系のタタール部、西北にオイラト部がおこり、互いに勢力を争った。両者の対立をうまく助長してモンゴルの統一を妨げようとした永楽帝は、5回のモンゴル遠征を行なった(1410〜1424)。最後の遠征の帰還途中に永楽帝は死亡するが、このモンゴル親政は一時的な効果を上げた。

ところが、15世紀中ごろオイラト部にはエセン・ハーン(?〜1454)が現れ、全モンゴルを従え、強大な勢力を背景に南下して明に交易を要求し、北辺に侵入した。このため第6代正統帝(英宗(明)位: 1435〜1449, 1457〜1464)は、自ら軍を指揮して討伐に向かったが、明軍は土木堡どぼくほで全滅し、正統帝は捕虜となった(土木の変 1449)。
明は新たに弟を即位させ(景泰帝 位: 1449〜1457)、北京防衛に努めた。エセン・ハーンはその後北京まで迫ったが、容易に落とせないと見ると和議を結び、正統帝を釈放して引き上げた。
正統帝の復位を巡って朝廷内部は対立したので、明の対外政策は守勢に転じ、北方の長城万里の長城)を改修してモンゴルの侵入に備えるなど、その政策はますます消極化していった。

明は、オイラト部の侵入以降、長城を増築・整備して北方民族の侵入に備えた。この時の長城が現在のもので、東の山海関から西の嘉峪関までの間には、二重に長城が張り巡らされたところもあり、その全長は述べ2400kmに及び、さらには一定の距離を置いて望楼(見張り台)や砦が配置されている。
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