新しい人間観と人間像 ナスタジオ・デリ・オネスティの物語(森の宴会)
ナスタジオ・デリ・オネスティの物語(森の宴会)(サンドロ・ボッチェリ画/プラド美術館蔵)©Public Domain 「デカメロン」の表紙に使用されている

新しい人間観と人間像

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新しい人間観と人間像

ペトラルカのように古典古代の学者であり、人間や世界についての観察や洞察をおこなった人々は ヒューマニスト(人文主義者)と呼ばれた。ギリシア・ローマの古典が「より人間らしくするもの」humaniora と呼ばれ、この研究から中世の教会的権威や神学で抑圧されてきた自然な人間性をよみがえらせようという動き、すなわち ヒューマニズム(人文主義)が学者や思想家たちの間に広まった。

新しい人間観と人間像

ルネサンスの時代には創造的な芸術家・学者が現れ、権力者、市民の間にも個性的な人物が活躍した。 個性や個人の価値が自覚されたことがルネサンスのひとつの特色といわれる。フィレンツェ生まれの詩人 ダンテ・アリギエーリ(1265年〜1321年)や ペトラルカ(1304年〜1374年)は、ルネサンス的人間の先駆とされる。ダンテの『 新生しんせい』は新しいスタイルの詩で、この中で彼は、理想の恋人ベアトリーチェへの愛をうたいあげた。また、中世の文章語であったラテン語でなく俗語であったイタリアのトスカナ語で書かれた『 神曲しんきょく』は、中世の神学の教える煉獄れんごく地獄じごくを描きながら、そこに落ちた人々のかつての生に著者の共感をよせている。

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ペトラルカは古典古代の文学、とくにマルクス・トゥッリウス・キケロ ローマ文化 – 文学)やウェルギリウスなどラテンの文学に傾倒し、ラウラという女性への恋愛をうたった叙事詩集『カンツォニエーレ』を書き、その学識と文才で知られた。人間の内面について鋭い洞察をし、人間の持つ自然な感情や自然そのものにも目を向けた。彼のように古典研究の学者であリ、人間や世界についての観察や洞察をおこなった人々は ヒューマニスト(人文主義者)と呼ばれた。

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デカメロン』で、世俗の社会に生きる人間の姿をいきいきと面白く描き、近代小説の祖とされるジョヴァンニ・ボッカッチョ(1313年〜1375年)も、ギリシアの古典研究家であった。ギリシア・ローマの古典が「より人間らしくするもの」humaniora と呼ばれ、この研究から中世の教会的権威や神学で抑圧されてきた自然な人間性をよみがえらせようという動き、すなわち ヒューマニズム(人文主義)が学者や思想家たちの間に広まった。

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金融業で産をなしたメディチ家は、その別荘にヒューマニストや芸術家を集め、古典文化の研究や講義をおこなわせた。芸術や学問を保護することは支配者の権威を高めることでもあった。職人であった画家や建築家も、人文主義者との交わりのなかで古典古代に関する学識をえて、彼らの作品にその知識を生かした。ルネサンス人がめざした理想の教養人になるためのマニュアルとして貴族出身のバルダッサーレ・カスティリオーネ(1478年〜1529年)の『宮廷人』のようなものも書かれた。そこでは、学問・芸術などの教養を身につけ、日常生活においていかに優雅にふるまうかが教えられている。ルネサンス人の自己意識を知る手がかりである。

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混乱するイタリアの政治の世界に生き『 君主論』を書いたフィレンツェの外交官ニッコロ・マキャヴェリ(1469年〜1527年)は、ローマの歴史を研究し、さらに現実を冷静に分析し、人間や政治の本質をみきわめようとした。彼の名は、目的のためには手段を選ばない権謀術数けんぼうじゅっすうを意味するマキャヴェリズムという言葉に用いられているが、彼はまた近代政治学の祖ともされる。

『君主論』(1532年 刊)

君主にとって、信義を守り、術策によらず、公明正大に生きていくことが、いかに賞賛に値するかは、誰もが知っている。しかし、現代の経験によれば、審議を顧慮せず、術策によって人々の頭を混乱させることのできた君主が、むしろ大事業を成し遂げている。しかも、結局、彼らのほうが信義に立脚している君主たちをしのいでいるということがわかる。

ところで、戦うためには2つの方法があることを知らねばならない。ひとつは法によるものであり、他は力によるものである。前者は人間本来のものであり、後者は野獣のものである。しかし、多くの場合、前者は十分でなく、後者に頼らねばならない。したがって、君主は、野獣と人間を使い分けることが必要である。

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メディチ家の「プラトン・アカデミー」

大金融業者でフィレンツェの支配者でもあったメディチ家の コジモ・デ・メディチ(1389年〜1464年)とその孫 ロレンツォ・デ・メディチ(1449年〜1492年)は学芸の保護者としても名高い。メディチはロレンツォ・ギベルティなどすぐれた建築家・彫刻家・画家たちに活動の場を与え、その邸宅の広間や別荘を学者、文人に開放し、彼らを保護助成した。コジモは自分の主治医の息子がすぐれた学問の才能があるのを見こんで、プラトンの著作を翻訳させ、フィレンツェの郊外カレッジの丘の別荘に住まわせた。その若者が マルシリオ・フィチーノ(1433年〜1499年)であった。フィチーノのまわりにはしだいに人が集まり、プラトンをはめとするギリシアの古典古代の哲学を論じ、ダンテやペトラルカについて語り合った。これが有名なフィレンツェの「プラトン・アカデミー(プラトニカ・アカデメイア)」である。コジモの孫ロレンツォもこれを引き継ぎ、それをいっそう発展させ、このアカデミーはルネサンスの多くの哲学者、文学者、芸術家が集う場となった。

参考 Nastagio degli Onesti – Wikiwand

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