国際的諸運動の進展 第2インターナショナル
第2インターナショナル 1904年第6回大会アムステルダム(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

国際的諸運動の進展

国際的諸運動の進展

世界の交流が進み、その一体化が進行すると、種々の国際的運動もさかんとなった。とくに社会主義運動は顕著であった。1863年ポーランドで独立運動がおこり(ポーランドの反乱(1863))、ロシアが抑圧したことがきっかけとなって社会主義者がロンドンに集まり、第1インターナショナル(国際労働者協会 1864〜76)を結成した。カール=マルクスがその指導者となったが、無政府主義者との内部対立がおき、バクーニン Bakunin (1814〜76)を除名した。パリ=コミューン後の弾圧の強化なども重なって、結局76年に解散した。フランス革命百年祭を迎える1889年、パリで第2インターナショナル(国際社会主義者大会 1889〜1914)が結成された。この組織には、ドイツの社会民主党、イギリスの労働党、フランスの社会党などが参加し、大衆運動の展開やメーデーの施行など、世界各国の労働運動の基礎を固めることに成果をあげた。しかし、それぞれの政党が各国の議会内部において有力になるにつれ、闘争方法は穏健化し、改良主義的な傾向をもつようになった。第一次世界大戦が勃発する直前、フランス社会党のジョレス Jaurès (1859〜1914)が暗殺されたり、またドイツでも戦争に反対した国会議員カール=リープクネヒトただひとりだったというように、ナショナルな傾向が顕著となり、第一次世界大戦が勃発すると解散した。

社会主義組織以外には、ナイティンゲール Nightingale (1820〜1910)の功績を基礎に、ソルフェリーノの戦い(イタリア統一戦争)を実見して戦争の悲惨さを認識したアンリ=デュナン Dunant (1828〜1910)が戦争犠牲者の救援をめざす国際赤十字同盟を設立し、エスペラント運動(国際語)も進められ、郵便・電信に関する国際機関もつくられた。さらに1896年、クーベルタン Coubertin (1863〜1937)によって古代オリンピックの再現としての国際オリンピックが始められ、スポーツの交流による国際親善がはかられた。

オリンピックとナショナリズム

クーベルタンによるオリンピック大会実現の背景として、彼がいかに理想を唱えても、プロイセン=フランス戦争敗北の原因が青少年の肉体的堕落にあるとしてスポーツの奨励がなされた当時のフランスの、ドイツに対する復讐心に満ちたナショナリズムの高揚ぬきには語れない。国際オリンピック委員会(IOC)は第一次世界大戦以前はクーベルタンの友人である各国の教育者とスポーツ関係者からなる単なる友好団体であり、IOCは当初は教育的活動をおこなう目的をもっていた。しかし各国が政治の手段としてオリンピックに注目するにつれて、クーベルタンの意図とはことなったかたちで、国家意識の高揚の手段として大会が利用されるようになった。1936年のベルリン大会をナチスがその宣伝の手段として有効に利用したことはつとに知られており、現在のオリンピックはプロも含めて国家間で金メダルの数を争う場所となり、「参加することに意義がある」は死語になっている。

またハーグにおいて国際平和に関する会議(万国平和会議 1889, 1907)がロシアのニコライ2世の提唱によって開催された。ここで国際平和が追求され、戦争法規にかかわるもの(毒ガスの禁止、捕虜協定など)が決定され、国際仲裁裁判所が1901年バーグに設置された。

ハーグでの万国平和会議(1907)の際に、朝鮮の皇帝高宗が日本の侵略の真相を訴えるべく密使を送ったが、各国代表はこれを冷遇した(ハーグ密使事件)。この事件を契機に高宗は退位させられた。

国際赤十字社同盟:1864年のジュネーヴ条約で成立した。戦争・平時を問わず現在博愛事業を行なっている。1928年各国の赤十字社などを統合して国際赤十字が成立した。赤十字が一般では使われているがイスラームでは三日月、イランではライオンと太陽を用いている。

万国郵便連合:1874年のベルリンでの万国郵便会議で協定が締結され、翌年7月成立。1947年には国際連合の専門機関となった。

国際電信連合:1865年通信連合として国際電信連合が成立した。

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