モスクワ大公国 ブルガリア帝国 セルビア王国(中世) 南スラヴ人の動向 後期ビザンツ帝国 1360年ころの東ヨーロッパ地図
1360年ころの東ヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

南スラヴ人の動向

バルカン半島に南下した南スラヴ人の多くはビザンツ帝国に服属したが、セルビア人はセルビア王国、ブルガール人はブルガリア帝国をたてて独立し、スロベニア人とクロアチア人はフランク王国の支配下に入った後オーストリア・ハプスブルク家の支配を受けた。

南スラヴ人の動向

東ヨーロッパ世界の成立
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

バルカン半島に南下した南スラヴ人の多くは、その地を支配していたビザンツ帝国に服属し、ギリシア正教を受け入れていった。

そのうち、セルビア人は長らく部族国家の状態に位あったが、11世紀後半には王国を形成し(セルビア王国(中世))(1171〜1346)、12世紀後半ネマニッチ朝を創始したステファン・ネマニャ(位:1171〜1196)によりビザンツ帝国からの独立を達成した。そして、14世紀前半のステファン・ウロシュ4世ドゥシャン(位:1331〜1355)の時代に最盛期に達し、セルビア教会は大主教座から総主教座に昇格、領土はスコピエを都とするセルビアのほかに、アルバニア・マケドニア・ギリシアの一部にまでおよんだ。彼らは自ら「セルビア人・ギリシア人の皇帝」を宣言、ビザンツ皇帝にとってかわろうとしたが果たせず、死後その領土は分裂した。そして、東方から進出してきたオスマン帝国コソボの戦い(1389)で決定的な敗北を喫し、1459年にはその支配下に入った。

また、7世紀末にバルカン東南部に入り、先住の南スラヴ人を破って建国したのがアジア系のブルガール人である。このスラヴ・ブルガール国家(第一次ブルガリア帝国)(681年〜1018)は次第に発展し、9世紀後半にはビザンツ帝国を脅かすまでに成長したが、その過程で支配層のブルガール人は数の優勢なスラヴ人に同化していき、新たにスラヴ系のブルガリア人を形成することになった。

スラヴ人の移動と東欧地域の宗教地図 ©世界の歴史まっぷ
スラヴ人の移動と東欧地域の宗教地図 ©世界の歴史まっぷ
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また、864年ボリス1世によりギリシア正教が国教とされたが、ビザンツ帝国への従属を避けるためにギリシア語に変えてスラヴ語典礼やスラヴ文字(キリル文字)の普及がはかられた。そして、シメオン1世(893〜927)の時にブルガリア教会は大主教の地位を得て独立し、帝国も領土を拡大して全盛期を迎えた。だが、彼の死後帝国は内紛により衰退にむかい、1018年ビザンツ帝国に征服された。その後12世紀末に独立を回復し、タルノボを都に第二次ブルガリア帝国(1186〜1396)を建設、カロヤン・アセン(位:1197〜1207)からイヴァン・アセン2世(位:1218〜1241)にかけての13世紀前半に絶頂期を現出した。だが、まもなくモンゴル人の侵入を受けて衰弱し、14世紀末にオスマン帝国により征服された。

南スラヴ人の中で、バルカン半島西北部に位置したスロべニア人クロアチア人は似通った道を歩んだ。9世紀にフランク王国の支配下に入るとカトリックを受け入れ、その後スロベニア人は14世紀前半から、またクロアチア人もハンガリーの支配を経て16世紀前半から、ともにオーストリア・ハプスブルク家の支配を受けることになった。

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