ドイツの分裂
七選帝侯 金印勅書によって定められた七選帝侯は、マインツ・ケルン・トリーアの3大司教とライン宮中伯(ファルツ選帝侯)にザクセン大公・ブランデンブルク辺境伯・ヴェーメン王であった。 ©Public Domain

ドイツの分裂

ドイツでは、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家との間に宿命的な対立があったが、12世紀末と13世紀半ばにフランスとイギリスが介入し、異例の国王二重選挙となった。その結果、1273年にハプスブルク家のルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)が即位するまでの間、ドイツは実質的に皇帝不在となった(大空位時代)。

ドイツの分裂

西ヨーロッパ中世世界の変容
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

ドイツでは、ホーエンシュタウフェン家ヴェルフ家との間に宿命的な対立があったが、12世紀末と13世紀半ばにフランスとイギリスが介入し、異例の国王二重選挙となった。その結果、1273年にハプスブルク家ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)が即位するまでの間、ドイツは実質的に皇帝不在となった(大空位時代)。ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)は、自家の領地広大を第一義とする典型的なドイツ貴族であり、神聖ローマ帝国は完全に形骸化していった。

シュタウフェン派の推す国王(カスティリャ王)とヴェルフェン派の推す国王(イギリス王の弟)が並び立ったが、ふたりともドイツにはほとんど顔をみせなかった。

13世紀を通じて、国王選挙の制度と選帝侯の地位、権限などが固定していった。1356年、ルクセンブルク朝のカール4世(神聖ローマ皇帝)金印勅書黄金文書)を発布し、7人の選帝侯と国王選挙の手続きを確認した。また付帯条項の中で、選帝侯は至高権・完全な裁判権・貨幣鋳造権・関税徴収権などの特権を認められ、事実上近代国家に等しい支配権を獲得することになった。その後、他の諸侯もこれにならおうと務め、西ヨーロッパ諸国が中央集権化しつつある中で、ドイツは逆に各両方国家の独立傾向が強まった。15世紀前半のアルプレヒト2世(神聖ローマ皇帝)以降、オーストリアのハプスブルク家が皇帝位を独占する(1438〜1806)ようになるが、それはもはや神聖ローマ帝国でもドイツ帝国でもなく、ハプスブルク家の帝国というにふさわしいものであった。

金印勅書

1356年1月ニュルンベルク、12月メッツの2度の帝国議会でカール4世(神聖ローマ皇帝)が発布した帝国法。その名は勅書に黄金の印章を用いたことに由来する。これによると、選帝侯はマインツ・トリール・ケルンの三大司教と、ベーメン王・ブランデンブルク伯・ザクセン侯・ライン宮廷(ファルツ)の四大諸侯に限定され、会議はフランクフルトで開催、評決は多数決とし、教皇の認証を必要としないというものであった。

この間、ドイツ人はエルベ・ザール川やベーメンの森を超えて植民活動を進め(東方植民運動)、現地のスラヴ人やマジャル人を同化・吸収しつつ、いくつかの諸公国と多数の村落・都市を形成していった。その結果、オーストリア・ブランデンブルク・プロイセン(ドイツ騎士団領)といった、近代のドイツの政治を動かすことになる大領邦が成立し、ドイツ国内の重心は東方に移動した。また、今日のスイス地方の農民と市民は、13世紀以降のハプスブルク家の支配に抵抗し、1291年ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンの3邦が永久同盟を締結、自由と自治を守るために相互援助を誓った。

シラーの戯曲(1804)やロッシーニのオペラ(1829年初演)で有名になったウィリアム・テル(ヴェルヘルム・テル)の伝説は、この独立運動にまつわるものである。

同盟にはその後、他の邦も次々に加盟し、圧迫するオーストリア(ハプスブルク家)軍を度々破った。1499年、オーストリアは失地回復をはかってシュワーベン戦争を引き起こしたが、スイス諸邦軍はこれを撃破し、事実上の独立を勝ち取った。

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