スペインとポルトガル 8〜13世紀レコンキスタ地図 ポルトガル王国
8〜13世紀レコンキスタ地図 ©世界の歴史まっぷ

スペインとポルトガル

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スペインとポルトガル

8世紀から300年ほど、イベリア半島は大半がイスラームの支配を受けていたが、キリスト教徒らはレコンキスタを展開し、1479年スペイン王国が誕生、1492年レコンキスタは完了した。同時にコロンブスによりアメリカ大陸への道が開かれ、スペインは西ヨーロッパの強国になっていく。ポルトガル王国も13世紀半ばまでにレコンキスタを完了し、絶対王政化を推し進め、西アフリカ沿岸の探検・航海を推進した。1488年バルトロメウ・ディアスはアフリカ南端の喜望峰に到達、ポルトガル海洋帝国への道が大きく開かれた。

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ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

711年、ムーア(ベルベル)人により西ゴート王国が征服( アラブ人の征服活動 – 世界の歴史まっぷ)されて以来、イベリア半島の大半がイスラーム教との支配を受けた。初めの300年ほどは後ウマイヤ朝(756〜1031)の支配下に統一を保ち、都のコルドバや西ゴートの都であったトレドを中心に経済・文化が発達し、西ヨーロッパ屈指の繁栄を誇った。

だが、その陰で北部のキリスト教徒らは国土回復運動(レコンキスタ)を展開し、すでに718年にはペラーヨ王(位718〜737)によるアストゥリアス王国が成立した。この王国はその後南に勢力を拡大、10世紀初頭にはレオンに都して、イベリアの中央部にも進出していった(レオン・アストゥリアス王国)。
レコンキスタの前進基地には多数の城塞を築いたところから、カスティリャ(ラテン語で城の意)と呼ばれ、10世紀にはカスティリャ王国が成立、まもなくそのフェルナンド1世(カスティーリャ王)はレオン王国を併合した。
他方ピレネー山脈地方でも、9世紀にナバラ王国が成立、サンチョ大王(サンチョ3世(ナバラ王))(位1000〜1035)のもとでバルセロナまで征服し、その子ラミロ1世(アラゴン王)によりアラゴン王国が建設された(1035)。このカスティリャとアラゴンという新興両王国を中心に、その後のレコンキスタは展開された。
スペインとポルトガル 8〜13世紀レコンキスタ地図 ポルトガル王国
8〜13世紀レコンキスタ地図 ©世界の歴史まっぷ

そのころ、後ウマイヤ朝は滅亡し(1031)、イスラームのイベリア支配は20余りの小王国の時代を迎えたが、レコンキスタとの関わりで重要な位置を占めたのは、サラゴサセビリャグラナダの3王国である。アラゴン王国の歴代の王はサラゴサを攻め、教皇の呼びかけによる連合軍も結成された(1064)が失敗に終わり、その占領は12世紀初頭にまでもちこされた。
他方、アルフォンソ6世(カスティーリャ王)(位1072〜1109)はトレドを占領(1085)、ついでセビリャを攻めたが、アフリカからベルベル人のムラービト朝軍が来援、失敗した。13世紀初頭、カスティリャ・アラゴン・ナバラの連合軍はムラービト朝にとって代わったムワッヒド朝軍に決定的勝利をおさめ、コルドバ・セビリャを相次いで回復した。その結果13世紀半ばには、イスラーム勢力はグラナダ1国を残すのみとなった。ナスル朝グラナダ王国(1230〜1492)は、カスティリャ王国に貢納しながらも独立を保ち、集約的農業と交易により栄えた。学芸が保護され、アルハンブラ宮殿も建設された。

すでにカタルーニャ・バレンシアとの連合王国を形成していたアラゴン王国は、その後地中海に向けて発展、13世紀後半にシチリア島、14世紀にサルデーニャ島、そして15世紀前半にナポリ王国を征服して絶頂期に達したが、国内では貴族や都市との抗争に苦しんだ。
一方、カスティリャ王国では14〜15世紀をつうじて王権が強化され、貴族との対立が激化した。また、小農経営を無視した牧羊業の推進と牧羊者組合(メスタ)の保護は農業の荒廃をもたらし、農民一揆や反ユダヤ暴動を引き起こした。

メスタ

1273年、アルフォンソ10世(カスティーリャ王)により認められた全牧羊業者組合で、19世紀前半まで存続した。レコンキスタの進展により、イベリア半島を南北に長距離移動する牧羊業がさかんとなった。それにともない、移動路や飼養地、迷羊の処理などをめぐって、地主・農民との衝突が生じた。国王は、輸出用羊毛生産を促進するため、これを保護する政策をとり、農村は疲弊した。

しかし、1469年アラゴン王子フェルナンドイサベル1世(カスティーリャ女王)が結婚、1479年には両国が統一されてスペイン王国が誕生すると、混乱は次第に収拾に向かった。
そして1492年、両国によりグラナダは陥落( 西方イスラーム世界)し、レコンキスタは終了した。同時にクリストファー・コロンブスによりアメリカ大陸への道が開かれ、スペインは西ヨーロッパの強国になっていく。

ポルトガル王国は1143年、ローマ教皇の仲介でカスティリャ王国から分離独立する(アフォンソ1世(ポルトガル王))(位1139〜1185)と、13世紀半ばまでにレコンキスタを完了した。首都リスボンは、地中海と北海を結ぶ中継地として栄え、やがてカスティリャ王国の海港都市セビリャとその地位を争った。
アヴィス朝(1385〜1580)の時代に絶対王政化が進められ、積極的な海外進出が行われた。初代国王ジョアン1世(ポルトガル王)(位1385〜1433)の子エンリケ航海王子(1394〜1460)は、1415年モロッコの商業都市セウタ攻略を皮切りに、カナリアス・マデイラ・アゾレスなどの大西洋諸島と、ブランコ岬・ヴェルデ岬などの西アフリカ沿岸の探検・航海を推進した。
それは、国内の貴族勢力を弾圧して絶対王政の確立に努めたジョアン2世(ポルトガル王)により継承された。王はスーダンの金取引に成功すると、さらにアフリカ南下政策を推進し、インド航路開拓の計画を具体化した。その結果、1488年バルトロメウ・ディアスはアフリカ南端の喜望峰に到達、ポルトガル海洋帝国への道が大きく開かれた。
エンリケ航海王子
エンリケ航海王子
エンリケ航海王子(ヌーノ・ゴンサルヴェス画/ポルトガル国立古美術館蔵)©Public Domain

彼は船酔いが激しかったために一度も航海には出なかったが、地理的知識を拡大し、ボルトガル商業を発展させ、ムーア人の真の力を認識してそれに対抗し、キリスト教の布教をめざしてアフリカの発見を促した。

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