イギリス領の拡大地図 インド植民地化の進行
イギリス領の拡大地図 ©世界の歴史まっぷ

インド植民地化の進行

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インド植民地化の進行

英・仏東インド会社は貿易独占会社だが、独自の軍隊・交戦権・協定締結権をもち、商館は活動の拠点で事実上要塞だった。インド人諸侯相互の争いも絡んだ戦争に勝利した英は土着の王侯を軍事力で圧倒し独占的にインド経営を進めた。

インド植民地化の進行

17世紀をつうじてイギリス東インド会社が開いたマドラス(1639)・ボンベイ(1668)・カルカッタ(1690)の3港は、それぞれ南インド・西インド・北インドへの進出の拠点となった。東インド会社は本来は貿易独占会社であるが、独自の軍隊をもち、敵との交戦権や協定締結権を与えられていた。商館はその活動の拠点で、事実上の要塞であった。会社はまたインド人傭兵シパーヒー Sipahi, セポイ Sepoy)を多数採用して兵員の不足を補った。一方、フランス東インド会社は、マドラス南方のポンディシェリ(1672)とカルカッタ北隣のシャンデルナゴル(1674)を根拠地として、インド経営をイギリスと争うにいたった。

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英・仏の会社の争いは、ヨーロッパにおけるオーストリア継承戦争七年戦争の勃発によって激しさを加えた。まず1742年にデュプレクス(フランス領インド総督) Dupleix (1697〜1763)が総督となりポンディシェリで積極的な活動を始めると、インド人諸侯相互の争いもからんだ戦争が勃発した。南インドでは前後3回にわたるカーナティック戦争 Carnatic War (1744〜48, 1749〜54, 1756〜63)が戦われ、インド人諸侯と組んだフランスの敗北に終わった。また北インドでは1757年にカルカッタ北方のプラッシー Plassey で、クライヴの率いるイギリス東インド会社軍が親仏反英のベンガル太守軍に勝利した(プラッシーの戦い)。こうしてフランス勢力をインドから駆逐したイギリスは、土着の王侯たちを軍事力で圧倒しつつ、独占的にインド経営を進めることになった。

アウラングゼーブの死後にムガル帝国が弱体化すると、アウド太守・ベンガル太守をはじめとするムスリム諸侯がつぎつぎに独立した。西北方面ではイラン・アフガン両勢力の侵攻があいつぎ、パンジャーブではシク教徒が力を強めた(シク王国)。西部デカンではマラーター族が勢力を回復し(マラーター同盟)、南部デカンでは将軍ニザームル=ムルク Nizam al-mulk がムガル帝国から独立してハイデラバード王国 Hyderabad をたてた。さらにその南には同じくムスリムの支配するマイソール王国 Mysore が存在した。こうしたインド内部の分裂と、地方に割拠する王侯たちの反目とは、すぐれた艦隊と火器とをもつイギリス東インド会社の進出に絶好の機会を与えた。プラッシーの戦いでベンガルに足場をきずいたイギリスは、1764年のブクサールの戦い Buxar で再び土着勢力を破り、翌1765年にムガル皇帝からベンガル・ビハール・オリッサのディワーニー diwani (徴税・行政権)を獲得し、東インドの広大な土地の事実上の支配者となった。会社はもはや単なる貿易企業体ではなくなり、インドの土地と住民を直接支配し、インド人から徴収した税を主たる財源とする権力機構となった。「インドの富」はこうしてイギリスに流出し、イギリス本土における産業資本の成長に貢献した。

これまで東インド会社のインド経営は独自の立場から進められてきたのであるが、会社の性格のこうした変化は本国政府の干渉を招くことになった。1773年にイギリス政府は規制法 Regularing Act を制定し、カルカッタ駐在のベンガル知事をベンガル総督に格上げして、マドラス・ボンベイ両管区を含むインドの経営の最高責任者に任じた。政府はこの総督をつうじてインド経営全体を監督することになったのである。さらに1784年に制定されたインド法 India Act により会社は本国政府が新設した監督局の監視下におかれることになった。

初代ベンガル総督ウォレン=ヘースティングズ Warren Hastings (任1774〜85)は、会社の赤字財政と取り組み、行政機構を整えるなど、植民地支配強化のための改革をおこなった。彼が採用したインド人勢力に対する積極策、すなわち戦って領土を併合するか軍事保護条約を結んで従属させるかという両面政策は、後続の総督たちによってもうけつがれた。そうした侵略の例としては、次のものがある。

  1. 4次にわたるマイソール戦争によって武勇の誉れ高いムスリム君主ハイダル=アリー Hyder Ali とその子(ティプ=スルタン Tipu Sultan)を破り、南インドに地歩を固める(1767〜69, 1780〜84, 1790〜92, 1799) 。
  2. ハイデラバード王国と軍事保護条約を結んでこれを従属させる(1789)。
  3. 3次にわたるマラーター戦争によって中部・西部デカンに勢力を確立する(1775〜82, 1803〜05, 1817〜19)。
  4. グルカー族と戦ってネパールを服属させる(1814〜16)。
  5. シンドの内政を圧迫し最後にこれを併合する。
  6. 18世紀末から台頭し19世紀初めランジト=シン Ranjit Singh (1780〜1839)のもとで最強となったシク王国を、彼の死後2回の戦争の末に破ってパンジャーブを併合する(1845〜46, 1848〜49)。
  7. アウドのムスリム政権に干渉したのちこの国を併合する(1856)。

さらに総督ダルハウジー Dalhousie (任1848〜56)は、王侯が直系の世継ぎをもたずに死んだ場合、その領土を会社が没収するという「失権の原則」を実施し、王侯たちを恐怖と屈辱に陥れた。

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