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革命の勃発

フランス革命 革命の勃発 球技場の誓い
球戯場〈テニスコート〉の誓い(ジャック=ルイ・ダヴィッド画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

革命の勃発

1789年5月5日三部会
6月17日第三身分議員による国民議会成立「球戯場〈テニスコート〉の誓い」
7月9日国民議会は正式に憲法制定国民議会と改称し憲法制定に着手
7月12日デモは略奪や放火などの騒乱に変わり、都市民兵(国民衛兵)を編制
7月14日群衆がバスティーユ牢獄襲撃

革命の勃発

立憲君主制の成立
立憲君主制の成立 ©世界の歴史まっぷ

三部会は1789年5月5日にヴェルサイユで開かれた。談員の数は、第一・第二身分議員がそれぞれ約300名、第三身分議員が約600名、計約1200名であった。聖職者議員には改革に理解を示す下級聖職者も多かった。第三身分代表にはミラボー Mirabeau(1749〜91)やシェイエス神父など、他の身分から離脱して選出されてきたものも含まれていた。

シェイエス神父:聖職者で三部会の第三身分代表、国民議会の指導者として活躍した。国民公会議員としては沈黙をまもり、総裁政府時代は再び活躍し、ナポレオンのクーデタに参画した。
ミラボー:伯爵であったが三部会では第三身分代表となり、国民議会成立に重要な役割を果たした。立憲王政の線で革命をとどまらせようとし、宮廷に接近、秘密資金を提供されていたことが死後判明した。

第三身分は、議員の身分別資格審査を拒否し、身分別の投票でなく、個人別投票を要求、身分別のいかなる審議も拒否して特権身分と対立した。妥協策を探して1ヶ月をへたのち、1789年6月17日、一部聖職者議員を加えて集まった第三身分議員は、彼らのみが国民を代表しているとし、みずからの会を「国民議会」 Asemblee Narionaleと宣言した。6月20日、第三身分議員は、議場が閉鎖されていたので、宮殿の球戯場に集まり、憲法を制定するまで解散しないことを、1人をのぞき満場一致で宣誓した(球戯場〈テニスコート〉の誓い)。国王は聖職者と貴族に第三身分と合流することを勧告し、国民議会を承認した(6月27日)。国民議会は正式に憲法制定国民議会と改称し、憲法制定に着手した(7月9日)。国民議会の成立は革命的ではあったが、最終的には王の承認をえて、法に従って達成されたものであった。

国王の側近は国王に強硬な態度をとらせようとした。国王はヴェルサイユに軍隊を集結させ、財務長官ネッケルを罷免した(7月11)。温厚で優柔不断なルイ16世(フランス王)には、断固たる方針も戦略もなかったが、軍隊による威嚇を感じたパリでは、市民の騒ぎが過熱していた。パレ=ロワイヤル界隈では扇動者が市民に武装を呼びかけていた。7月12日、デモは武器製造所の略奪や入市税関署の放火などの騒乱に変わり、秩序維持のため都市民兵(国民衛兵)が編制された。7月14日群衆は廃兵院で小銃と大砲を奪い、武器と弾薬があると思われたバスティーユ監獄 Bastille を襲撃した(バスティーユ牢獄襲撃)。監獄が占拠されたあと革命最初の虐殺がおこなわれ、バスティーユ司令官・パリ市長などが犠牲となった。

バスティーユ牢獄襲撃
バスティーユ牢獄襲撃(ジャン=ピエール・ウエル画/ビブリオテーク・ナショナル蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

1789年7月14日、パリ市民が圧政の象徴であったこの牢獄を攻撃して囚人7人を解放し、司令官と市長などを殺害した。

パレ=ロワイヤル:もともとはオルレアン家の宮殿と庭園であったが、庭園を囲む回廊が店舗として売却され、パリの中心的な盛り場となった。
バスティーユ監獄:14世紀にたてられた城塞。17世紀から監獄として使われた。投獄されるものは貴族やブルジョワが多く、かなり快適な生活を送っていた。囚人の数も少なく、経費節減からネッケルにより取りこわしが決定され、落札業者も決まっていた。

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参考

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