西スラヴ人の動向

古代のスラヴ人は、ドニエプル川流域からヴィスワ川流域一帯、特にカルパティア山脈より北の地域に居住し、農耕・牧畜と狩猟・漁労で生計を立てていたが、民族大移動の刺激を受け、6〜7世紀にかけてゲルマン人が移動した後に広がっていった。

西スラヴ人の動向

ヨーロッパ世界の形成と発展
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ
ヨーロッパの地勢とおもな遺跡地図
ヨーロッパの地勢とおもな遺跡地図 ©世界の歴史まっぷ

古代のスラヴ人は、ドニエプル川流域からヴィスワ川流域一帯、特にカルパティア山脈より北の地域に居住し、農耕・牧畜と狩猟・漁労で生計を立てていたが、民族大移動の刺激を受け、6〜7世紀にかけてゲルマン人が移動した後に広がっていった。

このうち、西方に拡大した西スラヴ人の中から、7世紀前半には最初のスラヴ人国家サモ(623〜658)がアヴァール人支配に対抗して建設され、続いて9世紀前半には、フランク王国の東方進出に対抗してチェック人モラヴィア帝国(833〜907)が建設された。この帝国は10世紀初めマジャール人により滅ぼされたが、それに先駆けて9世紀末にはベーメン王国(ボヘミア)がその支配から離れ、まもなくプラハを中心とするプシェミスル朝(900頃〜1306)のもとで統一された。
そのヴァーツラフ1世(ボヘミア公)はハインリヒ1世(ドイツ王)に臣従し、積極的にカトリック化を進めたが、これはベーメンが神聖ローマ帝国の支配を受ける出発点となった。その後、プラハ司教座が設置され、オタカル1世の時神聖ローマ皇帝から世襲の王位を獲得し、ベーメン王国となった。

ベーメン王国は、13世紀にオーストリア公領を奪い、ハンガリーを破るなどして領土を拡大し、中欧の強国となった。こうしたベーメンの強国化の背景には、ドイツ人の東方植民を利用した都市建設と銀山開発による経済の繁栄があった。
14世紀にドイツ系のルクセンブルク朝(1310〜1378)が成立すると、そのベーメン王カレル1世は神聖ローマ皇帝を兼任(カール4世(神聖ローマ皇帝))し、プラハを大司教座に昇格させたほか、ドイツ最初の大学をプラハに創立(プラハ大学)するなど、王国の黄金時代を現出した。しかし、ドイツ化の進展が政治・経済・文化の各面におよぶと、次第にチェック人の民族的な反抗が生まれ、中世末にはフス戦争(1419〜1436)が起こった。

またポーランド人は、10世紀にミェシュコ1世(位:960〜992)のもとでポーランド王国ピャスト朝(960頃〜1370)を形成するとカトリックを受容し、その子ボレスワフ1世(ポーランド王)(位:992~1025)の時代には首都グニェズノに大司教座を設置することに成功、まもなく神聖ローマ皇帝からポーランド国王の地位を認められるにいたった。しかし、その後宮廷の内紛が続いて豪族勢力の台頭を招き、11世紀後半にはいくつかの侯領に分裂し始めた。この間に首都は、荒廃したグニェズノからクラクフへと移った。分裂状態の中でドイツ人の東方植民が盛んになり、ドイツ騎兵団のプロイセン入植(1266)も行われた。
13世紀末になると統一への動きが活発化し、ヴワディスワフ1世(ポーランド王)とその子カジミェシュ3世(ポーランド王)(カシミール大王 位:1333〜1370)により統一が達成された。カシミール大王はドイツ騎士団と和約を結び、貨幣改革、法典の整備、クラクフ大学の創立などを行い、王権強化に努めたが、シロンスク(シュレジエン)をベーメンに奪われ、その死後ピャスト朝は断絶した。

クラクフ大学
ピャスト朝カジミェシュ3世(ポーランド王)により1364年創立されたポーランド最古の大学。中・東欧では、ベーメンのプラハ大学(1348年、カレル1世の創立)に次ぐ歴史を誇る。ヤギェウォ朝のもとで発展したため、ヤギェウォ大学とも称される。15世紀から16世紀にかけて、法学のほか天文学・数学・地理学などの分野で名を馳せ、特に地動説で有名なニコラウス・コペルニクス(1473〜1543)もここで学んでいる。

そのころ、ポーランドの北には、スラヴ系に近いバルト語系のリトアニア人が居住していたが、ドイツ騎士団の進出に対抗して13世紀半ばに統一され、14世紀にはヴィリニュスに都を置いたゲディミナス公ののもとで南・西ロシアの諸公国が併合され、大公国(リトアニア大公国(13世紀〜1795))となった。
1386年、リトアニア大公ヨガイラは、東のモンゴル勢力と北のドイツ騎士団の圧力に抵抗するため、カトリックに改宗してヤドヴィガ(ポーランド女王)と結婚、ポーランド国王を兼任した(ヴワディスワフ2世(ポーランド王))。

こうして、ヤギェウォ朝(1386〜1572)のリトアニア=ポーランド王国が誕生、15世紀にはドイツ騎士団をたびたび破り、さらに東方のモンゴル支配地域にも積極的に進出するなど強盛を誇ったが、その後次第に衰退し、リトアニアのカトリック化・ポーランド化を招いた。

またスロヴァキア人は、モラヴィア帝国崩壊後1918年までマジャール人(ハンガリー王国 1000〜1526))の支配を受け、チェック人とは異なる固有の民族性を形成することになった。

参考

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