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第一次世界大戦の勃発

澳の皇位継承者が澳に併合されたボスニアの州都サライエヴォで反ハプスブルクの民族主義的組織のセルビア系青年に暗殺され、澳は独の支援をえてセルビアに宣戦布告。露がセルビアを支援すると独は露・仏に宣戦布告。

二つの世界大戦

第一次世界大戦は帝国主義列強間の対立・緊張関係を背景に勃発し、ヨーロッパを主戦場として、兵員や物資を提供させるかたちで植民地をも捲きこむ大戦争になった。人類が初めて経験する総力戦となり、その惨禍さんかの規模は未曾有みぞうなものになったことから、戦後恒常的な平和機関として国際連盟が結成された。

パリ講和会議ではウィルソンが提唱した「十四カ条」が基本原則とされたが、英・仏は植民地や勢力圏の利害を優先し、ドイツに対して制裁的態度をとった。また対戦中ロシアでは十月革命が成功して世界最初の社会主義国家が樹立された。これに対し資本主義諸国は軍隊を派遣して干渉したが失敗した。東欧には民族自決の原則が適用されて新興国家が誕生したが、アジア・アフリカ諸地域の独立はまったく無視された。そのため対戦中経済的地位を向上させた民族資本化が主導しつつ、地域によってはコミンテルンの協力もえて、エジプト・インド・中国などで民族運動が高揚し、国内改革を進めつつ、植民地状態からの脱却が試みられた。

ヴェルサイユ体制はその根底に不安定要因を抱えつつも、賠償問題に関してはドーズ案、国際関係に関してはロカルノ条約の締結によって1920年代半ばに一応の安定をみた。アジア方面では対戦中に日本の大陸進出が顕著となり、それに反発する民族運動がおこると、アメリカ合衆国はワシントン会議を開催して、国際協調主義のもと、この地域の利害を調整した。

しかし1929年、ニューヨークのウォール街における株の大暴落を端緒とする世界経済恐慌は資本主義諸国を直撃し、国際的協調体制を崩壊させた。アメリカは広大な国土を背景にニューディール政策を進め、英・仏はブロック経済体制をとってこの危機を乗り越えようとした。それに対して独・伊・日などの後進資本主義諸国は大衆を組織しつつ、統制色の強い全体主義体制を樹立し、植民地の再編成を軍事力をもって解決しようとした。このためヨーロッパでは反ファシズムの抵抗運動が展開され、アジア諸国では独立と解放のための戦いがおこって、世界は再び緊張の渦に巻きこまれ、ついに1939年から第二次世界大戦に突入した。戦争はユダヤ人虐殺・南京虐殺・原爆投下など非戦闘員を巻きこむ大量殺戮さつりくを人類にもたらしつつ、連合軍がファシズム諸国に勝利して終結した。

第一次世界大戦とロシア革命

第一次世界大戦の勃発

第一次世界大戦の勃発 第一次世界大戦中のヨーロッパ
第一次世界大戦中のヨーロッパ ©世界の歴史まっぷ

1914年6月28日、オーストリア皇位継承者フランツ=フェルディナント大公夫妻がオーストリアに併合されたボスニアの州都サライエヴォで暗殺された(サライェヴォ事件)。犯人はセルビア系の青年で反ハプスブルクの民族主義的組織に所属していた。セルビア政府は事件とは直接関与していなかったが、オーストリアはドイツの強力な支援をえて7月28日にセルビアに宣戦布告した。セルビアを支援するロシアが総動員令を発すると、ドイツはロシア・フランスに宣戦布告した。

8月4日にはドイツ軍はベルギーの中立を侵して北フランスに進撃した。イギリスは国際法違反を理由にドイツに宣戦布告し、ほかの列強諸国も同盟・協商関係にしたがって参戦したので、同盟国側と協商国(連合国)側との間で帝国主義戦争が始まった。8月24日には日本が日英同盟 日露対立と列強)を理由に参戦し、中国におけるドイツの租借地膠州こうしゅう湾および山東省青島チンタオを攻略し、11月には、反ロシアのオスマン帝国に英・仏が宣戦布告したので、戦線は東アジアや西アジアにも拡大した。三国同盟の一員であったイタリアは1915年にオーストリアに宣戦布告し、17年にはアメリカ合衆国も連合国に加わった。バルカン諸国のなかではブルガリアが同盟国側に、ルーマニアとギリシアが連合国に加わった。こうして、戦線はヨーロッパからアジア・アフリカ・大西洋にまで拡大し、列強の植民地や従属地域から兵士や軍需物資も動員されたので、この戦争は世界的規模の大戦争となった(第一次世界大戦)。

第一次世界大戦前の国際関係図
第一次世界大戦前の国際関係図 ©世界の歴史まっぷ

ドイツはかねてからのシュリーフェン計画にもとづいて短期決戦を敢行したが、北フランスのマルヌの戦い Marne (1914年9月初旬)に敗れて進撃を阻止された。以後西部戦線は膠着し、一進一退の塹壕ざんごう戦となった。東部戦線ではヒンデンブルクの率いるドイツ軍が東プロイセンのタンネンベルクの戦い Tannenberg (1914年8月下旬)でロシア軍を殲滅し、ポーランドなどロシア領内に進撃したが、国土の広さや厳しい冬の気候のため決着の見通しはたたなかった。

シュリーフェン計画

ヨーロッパの中央に位置するドイツ(中央ヨーロッパ=中欧という表現がドイツでは好まれる)はロシアとフランスという東西の両強国にはさまれるという地政学的な位置関係から、常に二正面作戦を強いられる危険性があった。そこでドイツの参謀総長シュリーフェン将軍は、まず西部戦線で迅速に行動してフランス軍の主力を破り、直ちに左に転じてロシア軍にあたり、戦争に6週間で勝利するという短期決戦を構想した。この作戦計画は第一次世界大戦の緒戦で実行に移されたが、ロシア軍の動員が予想よりも迅速であったため、ドイツは西部戦線の右翼に配置していた師団の一部を東部戦線に割かざるを得なかった。そのおかげでタンネンベルクでは勝利したものの、マルヌの戦いでの敗北は軍事物資を大量に消費する長期戦への転機となった。こうして、西部戦線第一主義と短期決戦にもとづくシュリーフェン計画は挫折した。

参考

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