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玄宗の政治と唐の衰退
楊貴妃図 絹本着色 (高久靄厓画/1821江戸後期) ©Public Domain

玄宗の政治と唐の衰退

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玄宗の政治と唐の衰退
玄宗の治の前半は開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。玄宗と楊貴妃の恋愛と悲劇的結末をうたった白居易の『長恨歌』は、日本文学『源氏物語』にも影響を与えた。

玄宗の政治と唐の衰退

東アジア世界の形成と発展
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

韋后いこうを倒して即位した玄宗(唐)は、治世の前半は意欲的に政治に取り組み、開元の治と称される唐(王朝)全盛期をもたらした。都の長安は空前の賑わいを見せ、文化は爛熟期を迎えた。しかし、この繁栄の裏側では深刻な社会問題が発生しており、律令体制のほころびが明らかになっていたのである。

その第一は、均田農民の没落である。前述のように均田農民にとって府兵の負担はきわめて重く、すでに則天武后のころから、均田農民が土地を捨てて逃亡する逃戸とうこの増加が問題となっていた。このため開元中期には、逃戸をあらたに戸籍につける括戸かつこと呼ばれる政策が財務官僚宇文融うぶんゆうによって推進されたが、結局は挫折に終わった。こうして府兵制は、開元後期には実質的に崩壊し、740年に完全に停止され、健児けんじと呼ばれる職業兵士を雇用する 募兵制に移行した。

第二には、服属民族の唐朝に対する反抗・自立の動きが活発化し、羈縻政策きびせいさくが破綻したことである。このため、辺境を強力な軍事力によって防衛する必要が生じ、十節度使(藩鎮はんちんが設置された。

十節度使:睿宗(唐)の710年の河西節度使の設置にはじまり、玄宗(唐)の721年までに安西・北庭・隴右ろうう朔方さくほう河東かとう范陽はんよう平盧へいろ・剣南・嶺南れいなんの各節度使が設置された。なお節度使を長官とする軍事・行政機構全般を藩鎮と呼ぶ。

節度使は、辺境防衛のため、兵権のみならず、管轄区域の民政権・財政権もあわせもつという強大な権限を委ねられていた。また751年、タラス河畔の戦い高仙芝こうせんし率いる唐軍がアッバース朝の軍隊に大敗した事件は、唐(王朝)の対外的な退勢を明らかに示すものであった。

玄宗(唐)の治世後半の天宝年間(742〜756)になると、玄宗自身も政治に飽き、気に入りの寵臣ちょうしんを重用し、愛妃楊貴妃ようきひとの愛情生活におぼれるなど、政治の乱れが目立ってきた。寵臣のひとりソグド系の部将安禄山あんろくざん(705〜757)は、たくみに玄宗(唐)の信任をえて、北辺の3節度使(范陽はんよう平盧へいろ・河東)を兼任するまでに出世した。
一方、朝廷では楊貴妃の一族の楊国忠ようこくちゅうが宰相として実権を握っており、玄宗(唐)の恩寵を安禄山と争って対立した。このため755年、安禄山は楊国忠打倒を掲げて突如挙兵し、たちまち洛陽・長安をおとしいれ、大燕皇帝だいえんこうていと自称するにいたった。玄宗は蜀へ落ち延びたが、途中で部下の兵士の不満をなだめるため、最愛の楊貴妃に死を命じねばならなかった。

玄宗と楊貴妃の恋愛とその悲劇的結末を主題とする長編詩が白居易はくきょいの「長恨歌ちょうごんか」であり、日本でも愛好され、『源氏物語』などにも影響を与えている。

楊貴妃と「長恨歌」

玄宗(唐)
楊貴妃図 絹本着色 (高久靄厓画/1821江戸後期) ©Public Domain

長恨歌ちょうごんか」とは、白居易が玄宗(唐)と楊貴妃の恋愛とその悲劇的な結末を主題としてつくった叙事詩である。この詩は、発表と同時に大変な反響を呼び、白居易の代表作のひとつとされ、中国ばかりでなく、日本でも愛好されて、紫式部の『源氏物語』などの日本文学にも大きな影響を与えている。「ひとみを廻らしてひとたび笑えば百媚ひゃくび生じ、六宮りくきゅう粉黛ふんたい顔色無し」(視線をめぐらせて微笑めば百の媚態が生まれる。これには後宮の美女の化粧顔も色あせて見えるほどだ。)とうたわれた楊貴妃は中国史上第一の美女と讃えられているのである。楊貴妃は唐の時代を反映している樹下美人図や唐三彩にみられるようなタイプの美女の代表であった。

この反乱は、安禄山の死後、子の安慶緒あんけいちょ、さらに部将史思明ししめい父子によって継続されたため、安史の乱と称され、約9年におよぶ大乱となったが、ウイグルの援助などにより、ようやく鎮圧された。しかし、安史の乱は唐(王朝)繁栄を一挙にくつがえし、唐(王朝)の政治・経済・社会の各方面に重大な変化をもたらした。

まず政治面では、安史の乱に際して、唐朝は内地にも藩鎮をくまなく設置して、各地の防衛にあたらせたが、この藩鎮が強大な地方権力に成長し、しばしば朝廷に反抗して唐朝を苦しめた。

なかでも河朔三鎮かさくさんちんと呼ばれる河北の3節度使は、節度使の地位を世襲するなど、半独立の状況にあった。

中央政界では、安史の乱後に皇帝の親衛隊(神策軍しんさくぐん)を掌握した宦官が絶大な権力を持つようになり、のちには皇帝の廃立をも自由に操り、「門生天子、定策国老」とまで称されるようになった。

唐代の科挙では、合否の決定にあたる試験官は、合格した受験生から特別な礼を受けた。この言葉は天子の即位を決定(定策)する宦官を試験官に、天子を受験生(門生)に例えたものである。

また唐朝を支えるべき官僚層も、出自の違いや政策の相違によって派閥抗争をくりかえし、とくに9世紀半ばには、牛僧孺ぎゅうそうじゅ李徳裕りとくゆうを首領とする牛李の党争と呼ばれる激しい派閥抗争が展開され、政治の混乱に拍車をかけた。

次に経済・社会面では、安史の乱後、均田制・租庸調制は完全に崩壊し、780年、徳宗(唐)の宰相楊炎ようえんにより、両税法が施行された。
両税法は、土地私有を公認した画期的な税制であり、戸(家)を単位として土地(資産)の多少に応じて課税し、毎年夏・秋に徴収するもので、以後、宋をへて明の中期にいたるまで基本税制として継承された。

これは個々の丁男を単位に均等に課税する律令的な人民支配の理念が完全に変化したことを意味する。また両税の額は年々の予算に応じて決定され、銭額で表示されたが、これも貨幣経済の発展という社会情勢の変化に対応した新しい税制の原理であった。

また安史の乱のころより、塩の専売が開始され、国家の重要な財源となったが、高価な塩を買わされる民衆の困窮は増した。

塩の専売

塩は人間の生活にとって欠かすことのできないものである。しかも中国のような広大な国土をもつ国ではかなり生産地が片寄っており、その供給は人々にとってきわめて重要である。塩の専売は、かつて前漢の武帝(漢)時代におこなわれていたが、それ以後はあまり大規模にはおこなわれてこなかった。安史の乱という非常事態のなかで、財務担当の任にあった第五は専売の利益に着目し、産塩地に役所をおき、塩鉄使という専門の役職を設けてこれにあたった。この結果、原価の十数倍の利益をあげて、唐朝の重要な財源となったのである。しかし、唐末には塩商人が暗躍し、闇の塩(私塩)が出回った。唐朝を滅亡に追い込んだ黄巣こうそうが塩の闇商人とされるのは象徴的である。なお塩や茶などの専売収入は、これ以降の歴代の王朝にとって重要な収入源となった。

9世紀後半になると、唐(王朝)衰退はいよいよ進行し、政治腐敗によって民衆の生活は困窮の度を増した。こうした中、塩の密売商人で科挙の落第生ともいわれる黄巣こうそうが、仲間の王仙芝おうせんしとともに挙兵すると、窮乏した民衆がつぎつぎと参加して巨大な民衆反乱となった( 黄巣の乱 875〜884)。
黄巣軍は全中国を荒らしまわり、長安を占領して勢力をふるったが、反乱軍から寝返って唐朝の汴州べんしゅう節度使となった朱全忠しゅぜんちゅう突厥とっけつ沙陀部さだぶの援軍により、かろうじて鎮圧された。
しかし、この反乱によって唐の支配は事実上崩壊し、各地の藩鎮が公然と自立・割拠するなかで、907年、唐は朱全忠(後遼の太祖)によって滅ぼされ、中国は五代十国の分裂時代へと突入した。

参考

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