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明治維新(世界史) 明治維新
新皇居於テ正殿憲法発布式之図(安達吟光画/メトロポリタン美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

明治維新(世界史)

アロー戦争に強い衝撃をうけた幕府は、井伊直弼主導下に1858年日米修好通商条約、蘭・露・英・仏とも同様の不平等条約を締結。対外危機の中で下級武士を中心に倒幕運動がおこり、大政奉還をへて68年天皇親政の明治政府成立した。

明治維新(世界史)

欧米列強のアジア進出の圧力は、やがて江戸幕府のもとで17世紀以来鎖国を続けてきた日本にもおよぶようになった。ロシアが18世紀末以降、日本の北方海域に出没するようになったことは前述( ロシアの東方進出)のとおりであるが、19世紀になると、アメリカが日本を捕鯨船の補給基地と中国貿易の寄港地として目をつけるようになり、1853年、ペリー Perry (1794〜1858)の率いるアメリカ艦隊(黒船)が浦賀に来航し、日本の開港を求めた。幕府では開国か攘夷かをめぐって激しい対立があった。

19世紀半ばの東アジア地図
19世紀半ばの東アジア地図 ペリーの来航ルート ©世界の歴史まっぷ

しかし老中阿部正弘(1819〜57)らは、開国は避けられぬ情勢にあると判断し、翌1854年、日米和親条約(神奈川条約)を締結して、下田・箱館(函館)の2港を開港した 。さらに初代アメリカ領事として着任したハリス Harris (1804〜78)が将軍に謁見して開国を求めると、アロー戦争の経過に強い衝撃をうけていた幕府は、大老井伊直弼(1815〜60)の主導下に、1858年、日米修好通商条約を締結した。ついでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとの間にも同様の条約(安政五カ国条約)を結んで開港を断行した。これらの条約は、開港場の増加のほか、領事裁判権(治外法権)や関税自主権の喪失などを内容とする不平等条約であった。この条約は中国の南京条約・北京条約のような敗戦による条約ではなかったため、賠償金支払いや領土の割譲はなく、アヘンも禁輸とされるなど、中国に比べれば不平等性は弱かった。

対外危機の中で、下級武士を中心に倒幕運動がおこり、幕府の大政奉還をへて、1868年、天皇親政の明治政府が成立した(明治維新)。新政府は列強の進出に対抗するため、西欧文明の積極的受容による近代化と富国強兵をはかり、政治・経済・軍事・教育のあらゆる分野で急速な改革を進め、殖産興業を掲げて工業の発展に力を注いだ。

対外的には、幕末の1855年(安政元年12月)にロシアとの間で日露和親条約が結ばれ、千島列島の択捉島(エトロフ)以南を日本領、得撫島(ウルップ)以北をロシア領とし、樺太(サハリン)を両国民雑居の地と定めていたのに対し、1875年に樺太・千島交換条約を結んで、全樺太をロシア領、全千島を日本領と定めた。また、江戸時代まで日本(薩摩藩)と清に両属するかたちをとっていた琉球に対して、その領有権を強く主張し、1872年に琉球藩をおき、1879年には軍隊を派遣したうえでこれを沖縄県に改めた(琉球処分)。

日露和親条約と樺太・千島交換条約
日露和親条約と樺太・千島交換条約地図 ©世界の歴史まっぷ

また、1874年には清国領台湾に漂着した琉球島民が現地人に殺害された事件を契機に台湾出兵 をおこなうなど、おりからの朝鮮半島をめぐる動きとあわせて、しだいに領土拡大と大陸進出をめざす野心を明らかにしていった。西洋列強の進出と、日本の国力の発展によって、従来の清朝を中心とする東アジアの国際関係は大きく変化した。1861年、清朝は特別に外交関係の事務を取り扱う総理各国事務衙門を設置したが、これは新しい国際情勢に対応することを目的としたものである。

この後、イギリス・ロシア・オランダともほぼ同様な和親条約が締結された。

「台湾先住民は清朝政府の支配下にあるか」などが問題となったが、事件後、大久保利通が全権となって清と交渉し、イギリス公使ウェードの調停もあって、清から補償金50万両テールが支払われることで日本軍は撤兵し、事件は一応の解決をみた。

参考

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