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日露対立と列強
東城鉦太郎『三笠艦橋之圖』 右から左へ:伝令・玉木信介少尉候補生、伝令・三浦忠一等信号兵、参謀・秋山真之中佐、連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将、測的係・長谷川清少尉、参謀長・加藤友三郎少将、伝令・野口新蔵四等水兵、砲術長・安保清種少佐、艦長・伊地知彦次郎大佐、砲術長附・今村信次郎中尉、航海長・布目満造中佐、参謀・飯田久恒少佐、航海士・枝原百合一少尉、伝令・山崎厳亀少尉候補生(東城鉦太郎画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

日露対立と列強

露の東三省占領は、日露の対立を深め、英・米にも強い警戒の念を抱かせた。当時英国は南アフリカ戦争に苦戦、アフガニスタン・イラン方面でも露と対峙、地理的に遠い極東方面で露と対峙するパートナーを必要と考え、極東における利害が一致した日英は1902年、日英同盟を締結。露を警戒するアメリカの援助を背景に、対露戦争の準備を進めた。
仏は露仏同盟により露を支援、バルカン方面で露と対立していた独も、露の極東政策を支援、日本と露との衝突はさけられぬ勢いとなっていった。

日露対立と列強

義和団事件に際して、中国東北地方(奉天ほうてん吉林きつりん・黒竜江の東三省とうさんしょう)に大軍を派遣したロシアは、事件後も撤退せず、朝鮮半島への圧力を強め、朝鮮半島での利権独占をはかる日本との対立を深めていった。日清戦争後の朝鮮は、1897年に国号を大韓帝国と改め、国王高宗(李太王りたいおう、位1863〜1907)は大韓皇帝の称号を用い、外圧の中で国家の独立をまもろうと苦心していた。しかし、利権獲得による列強の圧迫は厳しく、とくに挑戦に大きな関心をもつ日本とロシアの干渉は強力で、韓国宮廷内には親日派と親露派による内部対立も生じて、政治的動揺が続いた。

ロシアの東三省占領は、日本とロシアの対立を深めるとともに、イギリスやアメリカにも強い警戒の念を抱かせた。当時イギリスは、南アフリカ戦争に苦戦し、アフガニスタン・イラン方面でもロシアと鋭く対峙する情勢下で、地理的に遠い極東方面でロシアと対峙するパートナーを必要と考えるにいたった。こうして極東における利害が一致した日本とイギリスは、1902年、日英同盟 同盟外交の展開と列強の二極分化)を締結した。イギリスにとってこれは、伝統の「栄光ある孤立」の放棄でもあった。日本では、伊藤博文のようにロシアとの協調路線を説く意見もあったが 、政府(桂太郎内閣)は、日英同盟と、同じくロシアを警戒するアメリカの援助を背景に、ロシアに対する戦争準備を進めていった。一方、フランスは露仏同盟によってロシアを支援し、バルカン方面でロシアと対立していたドイツも、ロシアの関心をヨーロッパからアジアにむけさせるため、ひそかにロシアの極東政策を支援し、日本とロシアとの衝突はさけられぬ勢いとなっていった。

列強が領土割譲による中国再分割をおこなわなかったのは、義和団に現れた中国民衆の強烈な抵抗のエネルギーをみて、分割を強行して第2、第3の義和団を招くより、中国の統治は清朝に任せて、もっぱら経済的利潤を吸いあげるほうが上策と判断したことによる。

こうして1904(明治37)年2月、日本は仁川じんせん旅順りょじゅんのロシア艦隊への奇襲によって開戦にふみきり、日露戦争が始まった。日本軍は1905年1月、多大の犠牲の末に旅順要塞を陥落させ、3月の奉天会戦でロシア陸軍主力を破り、5月の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅するなど軍事的勝利を重ねたが、国力はもはや限界に達していた。一方、ロシア側も1905年1月の血の日曜日事件に始まる第1次ロシア革命 ロシア)の勃発により、戦争継続が困難な状況となっていた。こうした情勢のもとで、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの調停により、1905年8〜9月、アメリカ東海岸のポーツマス Portsmouth で講和会議が開催され、日本全権小村寿太郎とロシア全権ヴィッテの間で、ポーツマス条約が結ばれた。この条約で、日本は朝鮮半島における全面的な優越権(韓国に対する保護権)を認められたほか、遼東半島南部(旅順・大連などの関東州)の租借権、東清鉄道南満洲支線(南満州鉄道) の利権、北緯50度以南の南樺太(サハリン南半)の領有権、沿海州の漁業権などを獲得した。

ロシアが敷設した東清鉄道の支線で、ハルビンと旅順を結ぶものであるが、このとき日本が獲得したのは、長春〜旅順間の利権であった。日本は、南満州鉄道会社(満鉄)を設立して、鉄道経営のほか、沿線の鉱山開発など多角的な事業を推進した。

日露戦争後、ロシアは極東における積極的進出を断念して、主たる関心をバルカン方面にむけることとなり、ドイツ・オーストリアとの摩擦を強めていった。日本は日英同盟を改定して(1905)、同盟関係を継続したほか、極東での積極的進出を断念したロシアと、中国東北地方の利権を南北に分かち、それぞれの勢力圏(ロシアは北部、日本は南部)として了承することで、急速に接近していった。すなわち1907年、日露協約が結ばれ、それぞれの勢力圏を相互に尊重することで両国は提携関係に入った。これと並行してロシアの同盟国フランスとの間にも日仏協約が結ばれ、日本の韓国における優越的地位と、フランスのインドシナにおける優越的地位を相互に承認した 。一方アメリカは、1905年、桂・タフト協定により、日本の韓国における優越的地位とアメリカのフィリピンにおける優越的地位を相互承認したが、中国東北地方においては門戸開放の原則を主張し、米資本の参入の機会をうかがっていたから 、日・露による東北地方の利権分割はきわめて不快なものであった。また極東における日本と英・仏・露の提携の成立は、アメリカに孤立感を抱かせることになった。このためアメリカの日本に対する好意は冷却し、両国の関係はしだいに険悪な方向に向かっていった。アメリカで日本人移民排斥分銅 が始まったことなどは、その顕著な表れである。

このため、ファン=ボイ=チャウの東遊運動(ドンズー運動, 日本への留学運動)は、フランス政府の要請をうけた日本政府の弾圧によって、挫折に追いこまれた。

たとえば、アメリカの鉄道王ハリマンは南満州鉄道の経営への参加に強い意欲をもち、一時日本政府との間に南満州鉄道を日米合弁事業とする予備協定を成立させていた。

1906年、カリフォルニア州での日本人児童の通学拒否事件に始まり、さらに州議会による移民制限法・日本人土地所有禁止令の可決へと排斥運動はしだいに激化し、全米に広がっていった。最終的には1924年の移民法により、日本人移民は完全に停止された。

日本史からみた日露対立と列強

日露戦争 – 世界の歴史まっぷ

参考

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