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新思想の成立
アケメネス朝ペルシア版図と周辺諸国地図 ©世界の歴史まっぷ

新思想の成立

ガウタマ・シッダールタは身分はクシャトリヤであったが、29歳の時出家し、35歳のときブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開いてからはブッダなどの尊称で呼ばれる。
ブッダによって開かれた仏教は、正しい生き方を中道ちゅうどうと称し、極端な苦行と快楽を否定し、8つの正しい道(八正道はっしょうどう)の実践に努め、自我の欲望(煩悩)を捨てることによって解脱、すなわち涅槃ねはん寂滅じゃくめつ)の境地に達することができると説いた。

新思想の成立

アジア・アメリカの古代文明
アジア・アメリカの古代文明 ©世界の歴史まっぷ
紀元前6世紀ころになると、アーリヤ系民族の政治活動と経済活動の中心はさらに東方のガンジス川中・下流域へと移った。当時の北インドに存在した主要な国家は16大国と総称される。やがてそのなかのマガダ国ビンビサーラ(紀元前546頃〜紀元前494頃)とアジャータシャトル(紀元前494頃〜紀元前462頃)の時代に強力となり、同じ王政をとる強国コーサラを破って紀元前5世紀初めにガンジス川中・下流域に覇を唱えた。
肥沃な平原と豊富な鉄資源がマガダ国の発展を支えたのである。こうした政治的進展とともに経済的な発展もみられた。諸国の首都には商人が集まり住み、彼らは国境を超えた交易活動にも従事した。貨幣の使用が始まったのもこの頃である。当時ガンジス川中・下流域の新興都市で活躍していたクシャトリヤやヴァイシャのなかには、ヴェーダ聖典やバラモンの権威を認めず、ヴァルナ制度にとらわれず行動するものも多かった。そして彼らは、自分たちの行動を支えてくれる新しい宗教を待ち望んでいた。このような空気を持った諸都市に新しい思想をいただくものたちが集まり、その思想を説いてまわった。彼らの多くはバラモンの権威と祭式主義と否定し、また聖典語ではなく口語のみを用いた。中国の諸子百家に相当する六十二見(多数の思想家)が現れたが、そうした思想家のうちヴァルダマーナ(マハーヴィーラ)とガウタマ・シッダールタ(釈迦)が特に名高い。
アケメネス朝ペルシア版図と周辺諸国地図
アケメネス朝ペルシア版図と周辺諸国地図 ©世界の歴史まっぷ
ヴァルナ(種姓制度)図
ヴァルナ(種姓制度)図 ©世界の歴史まっぷ

ヴァルダマーナ(紀元前549頃〜紀元前477年頃)はマガダ国のクシャトリヤ出身であり、出家し悟りを開いたあと、不殺生の戒律の厳守と、肉体的苦行による霊魂の解放(解脱)を説いた。彼はマハーヴィーラ(大雄(大勇))、ジナ(勝者)の尊称をもち、彼の宗派はジャイナ教と呼ばれる。ジャイナ教は主として商人階級の間に広まった。信者は今日なお西インドを中心に約550万人(インド共和国人口の0.5%)を数える。

ガウタマ・シッダールタ(紀元前566頃〜紀元前486頃)はコーサラ国の属国であるヒマラヤ山麓に住むシャーキャ(釈迦族)の有力者の家に生まれた。身分はクシャトリヤであったが、29歳の時出家し、35歳のときブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開いた。その後80歳で没するまでガンジス川の中・下流域を旅してまわり教えを説いた。悟りを開いてからはブッダ(仏陀・真理を悟ったもの)、シャーキヤムニ(釈迦牟尼しゃかむに・釈迦族出身の聖者)などの尊称で呼ばれる。

彼によって開かれた仏教は、いっさいのものは滅びる(諸行無常しょぎょうむじょう)という無常観にたち、人生を「苦」とみてその苦を克服する道を求めたものである。ブッダは正しい生き方を中道ちゅうどうと称し、極端な苦行と快楽を否定し、8つの正しい道(八正道はっしょうどう)の実践に努め、自我の欲望(煩悩)を捨てることによって解脱、すなわち涅槃ねはん寂滅じゃくめつ)の境地に達することができると説いた。こうした教理は主として解脱を求める出家者(比丘びく)にむかって説かれたものである。その一方でブッダは、一般の信者に対して、道徳的に正しい生き方と慈悲の尊さを説いている。その教えはとくに都市に住むクシャトリヤや商工業者に歓迎され、通商路に沿って伝えられた。

ブッダの死後、教えが失われたり異説が生じたりすることを恐れた弟子たちは、一堂に会して正しい説を決定した。これを第1回の仏典結集という。その後しばらく教団の統一が維持されたが(原始仏教時代)、ブッダの死後100年ほどして第2回の結集が開かれた頃から分裂を始め、多数の部派が誕生した(部派仏教時代)。それぞれの部派は自派の正統性を主張するため三蔵と称される経典を編集するにいたった。

ブッダの教えを集めた「経蔵」、仏教教団の規則を定めた「律蔵」部派の教理を集めた「論蔵」を三蔵と称する。

またこの時代をつうじてブッダの理想化が進み、ブッダの過去世における善行を語ったジャータカ物語(本生和ほんじょうわ)が成立し、ブッダの遺骨をおさめた塔(ストゥーパ)の崇拝がさかんになった。

ブッダの四大聖地

ブッダの生涯に関係ある土地は、後世の仏教徒の巡礼地となった。インドを旅した中国僧たちも、これらの聖地巡礼を目的のひとつとしていた。そうした聖地の中でも、以下が四大聖地として知られた。①ブッダ誕生の地・カピラヴァストゥ、②ブッダが悟りを開いた地・ブッダガヤ、③ブッダが最初に法を説いた地・ヴァーラーナシーのサールナート鹿野園ろくやおん)、④ブッダの涅槃の地・クシナガラ

ブッダの生没年

古代インドの確実な年代を知ることはきわめて困難である。そうした年代確定の基点となるのがアショーカ王の即位年で、これは同王の碑文に名を記された5人のギリシア人の王の在年との関係から紀元前268年ころであることがわかっている。
問題はこの年からいく年さかのぼったところにブッダの没年(仏滅年)を求めるかにあり、中国など北方に伝わった年数(100年あるいは116年)とスリランカなど南方に伝わった年数(218年)のどちらをとるかで大きく2説に分かれる。前者によれば、ブッダの没年は紀元前368/384年ころ、後者によれば紀元前486年ころということになる。ブッダの生涯が80年であったという伝承は共通であるから、生没年は紀元前448/464〜紀元前368/384、あるいは紀元前566〜紀元前486となる。ブッダの時代はマガダ国の強大化の始まった時代であるから、生没年の決定は思想史にとどまらず政治史・経済史に大きく関わるのである。なお、今日の南方仏教では、仏滅年を紀元前544年とするブッダ暦が広く用いられている。

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参考

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