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帝政の成立と大陸制覇

1802年終身統領となっていたナポレオンは、1804年国民投票で皇帝の地位に登り(ナポレオン1世)、第一帝政を開いた。ナポレオンの権力は戦争の勝利と栄光によりもたらされたもので、ナポレオンは大陸制覇へと戦争を再開し、ヨーロッパの大部分がナポレオンの支配下におかれた。

帝政の成立と大陸制覇

ナポレオンの登場と大陸支配B
ナポレオンの登場と大陸支配B ©世界の歴史まっぷ

1802年終身統領となっていたナポレオンは、1804年国民投票で皇帝の地位に登り(ナポレオン1世 位1804〜14, 15)、第一帝政を開いた。ナポレオンの権力は戦争の勝利と栄光によりもたらされたものであった。この後、戦争が再開され、ナポレオンは大陸制覇へと歩みだす。

ナポレオン時代のヨーロッパ地図
ナポレオン時代のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

イギリスでは再び小ピット内閣が成立し、1805年、第3回対仏大同盟が結成された。ナポレオンはイギリス侵攻計画をたてたが、同年10月、トラファルガーの海戦 Trafalgar で、ネルソンのイギリス艦隊にフランス・スペインの連合艦隊が敗れ、計画は挫折した。陸上の戦いではナポレオンは大きな勝利をおさめた。同年12月のアウステルリッツの戦い Austerlitz では、ナポレオンがオーストリア・ロシア連合軍を撃破し、大陸の覇権を握ることとなった。

イタリア・オランダを支配下においたナポレオンは、1806年南ドイツ、ライン右岸のドイツの16の邦をまとめてナポレオンを盟主とするライン同盟をつくらせた。オーストリア=プルスブルク家の皇帝をいただく神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。

プロイセンはナポレオンに脅威を感じ、ロシアと同盟してフランスに宣戦した。ナポレオンはイエナ・アイラウでプロイセン軍を、アイラウ・フリースランドでロシア軍を破り、1807年ティルジット Tilsit で両国に屈辱的な内容の講和を押しつけた(ティルジット条約)。とくにプロイセンは領土の半分を奪われ、莫大な賠償金と軍備制限を課せられた。ポーランドにはワルシャワ大公国がたてたれた。

ヨーロッパの大部分がナポレオンの支配下におかれた。フランス本国は88の旧県にベルギー・ルクセンブルク・ジュネーヴ・ライン左岸・ピエモンテ・ジェノヴァなどが加えられ、1810年に130県に拡大した。ナポレオンの一族が従属国の王となった。弟ルイ Louis (1778〜1846)のオランダ王、兄ジョセフ Joseph (1768〜1844)のナポリ王などである。オーストリア・プロイセン・ロシアはフランスの同盟国とされ、協力を要請された。1809年ナポレオンは皇后ジョゼフィーヌ Joséphine (1763〜1814)と離婚し、翌10年オーストリア皇女マリ=ルイズ Marie Louise (1791〜1847)をきさきに迎え、ヨーロッパの旧勢力との結びつきをはかった。

参考

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