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太平天国の乱 太平天国の興亡
安慶の戦い(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

太平天国の興亡

アヘン戦争敗戦後、アヘン輸入量の増加や多額の賠償金の支払い、天災で失業者や流民の数は増え、地方の治安は悪化。民衆は結社を作り助け合い、19世紀半ば、結社は各地で反乱をおこし、最大のものが太平天国の乱であった。

太平天国の興亡

アヘン戦争後、アヘン輸入量の増加や多額の賠償金の支払いは、銀価の高騰や重税となって民衆にはねかえり、おりからの天災も加わって、民衆の生活をいちだんと苦しめた。失業者や流民の数は増え、地方の治安は悪化した。民衆の間では結社をつくってたすけ合い、生活を守っていこうとする動きが高まった。19世紀半ばころになるとこれらの結社は各地で反乱をおこすようになるが、そのなかで最大のものが太平天国の乱であった。また、華北農民を中心とした捻軍ねんぐん捻匪ねんぴ)なども有名であり、会党かいとう 清の衰退)の活動なども活発化した。

19世紀半ばの東アジア地図
19世紀半ばの東アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

広東カントン省の客家ハッカ出身の洪秀全こうしゅうぜん(1813〜64)は、科挙落第の挫折を重ねたのち、キリスト教伝道書との出会いを契機として、1843年キリスト教的色彩をもつ宗教結社拝上帝会はいじょうていかいを創始し、広西こうせい省を中心に多くの信徒を集めた。1851年、彼は広西省金田村きんでんそんに信徒を集めて挙兵し、太平天国の建国を宣言、みずからを天王てんおうと称した。太平軍は、広西から湖南こなん湖北こほくを転戦するうちに、窮乏農民や流民・会党員などを吸収して巨大な集団へと成長した。また「滅満興漢めつまんこうかん」(満州人王朝の清を滅ぼして、漢人国家を樹立する)の熱烈な民族主義をスローガンに掲げ、辮髪べんぱつを断って清朝打倒の意思を表明した 。太平軍は、規律の乱れた清朝正規軍とは対照的に、きわめて規律厳格であった。そのため、いたるところで民衆の支持をうけ、漢口かんこう武昌ぶしょうなどを占領したのち、1853年には南京を占領して首都と定め、天京てんけいと名づけた。その後、太平天国は天朝田畝制度てんちょうでんぽせいどを発布して、その理想とする国制を掲げ、男女の平等を明示した。また纏足てんそく やアヘン吸飲の悪習を禁止するなど、革新的政策を掲げて、上帝のもとにおけるすべての人間が絶対平等な理想社会を建設しようとした。

洪秀全と拝上帝会

洪秀全は、客家出身である。客家とは戦乱や生活苦のため、華北地方から南方の福建・広東・江西省や四川省などの山岳地方に流れてきた移住民の集団をさし、一般に、先住民からさまざまな差別と圧迫をうけながら貧しい生活を送っていた。洪秀全は、3回目の郷試(科挙の地方試験)に失敗して失意の病床に臥しているうちに奇怪な夢をみた。その夢とは、自分が黒衣の老人から剣を授けられ、悪魔と戦うというものであった。その後、彼は、プロテスタントの伝道書『観世良言かんぜりょうげん』と出会うことによって、夢でみた黒衣の老人は「上帝」ヤハウェであり、自分はヤハウェの子、すなわちイエス=キリストの弟「天弟」であるとの確信をもつにいたり、ついに拝上帝会を結成したのである。これからすれば、拝上帝会はキリスト教的宗教結社といえる。しかし、上帝とはもともと儒教にいう天の神であり、彼はこの中国古来の上帝をヤハウェにおきかえたのであった。また彼がめざした「地上の天国」(小天堂)とは、「田があればみんなで耕し、食物があればみんなで食い、衣服があればみんなで着、銭があればみんなで使う」という天朝田畝制度てんちょうでんぽせいどの言葉がよく示しているように、財産をはじめあらゆる社会生活が万人平等に営まれる自給自足共同体であり、これも中国古来の大同思想のユートピア論にほかならなかった。したがって、拝上帝会は、やはりキリスト教とは異質な、きわめて中国的な宗教結社であったといえる。広西・広東のやせた山岳地帯で極貧の暮らしを送る農民や炭焼き人たちは、拝上帝会の教えに救いの希望を託して続々と入信し、1851年の挙兵時には、信者の数はおよそ2万に達していたという。

天朝田畝制度

1853年に発布された天朝田畝制度てんちょうでんぽせいどは、太平天国のめざす絶対平等の理想社会を集約的に実現するものであった。その内容は、①16歳以上の男女農民すべてに平等に田土を支給する。②25戸ごとに国庫と礼拝堂を設置し、収穫物は、自家消費分と種もみをのぞいてすべて国庫におさめ、国庫におさめられた物資は、天王がすべての人に均等・公平に分配する。③1家から兵士1人をだすが、孤児や障害者は兵役を免除され、国庫により養われる。などである。しかし、実際にはこれらの政策はまったく実施されず、空文に終わってしまった。

太平天国の乱
岳州の戦い(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
太平天国の乱
田家鎮の戦い(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
太平天国の乱
武昌の戦い(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
太平天国の乱
安慶の戦い(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

太平天国は、1854〜55年の全盛期には300万人を数えたといわれ、華北や長江上流に軍を進めたが、天京政府首脳部の内紛によって衰えはじめ 、一方、清朝側では、漢人官僚が郷里で組織した地主階級を中核とする義勇軍(郷勇きょうゆう)が各地で結成され、弱体な清朝正規軍(八旗・緑営)にかわって、太平軍と激戦を展開するようになった。曾国藩そうこくはん(1811〜72)の率いる湘軍しょうぐん(湖南省)、李鴻章(1823〜1901)の率いる淮軍わいぐん安徽あんき省)、左宗棠さそうとうの率いる楚軍(湖南省)などが代表的な郷勇である。また、欧米列強も当初は太平天国軍に同情的であったが、アロー戦争終結後は清朝援護に転じ、最初はアメリカ人ウォード Ward (1831〜62)が、彼の戦死後はイギリス軍人ゴードン Gordon (1833〜85)が指揮する傭兵常勝軍 Ever-victorious Army は清軍に協力した。こうして太平軍はしだいに追いつめられ、1864年6月には天王洪秀全が病死し、翌月には天京が陥落して、太平天国は滅亡した。その後、太平軍の残党は華北の捻軍と合流して抵抗を続けたが、やがて各個に撃破され鎮圧されていった。なお、太平軍の残党の中には、劉永福りゅうえいふく(1837〜1917)の黒旗軍こっきぐんのように、ベトナムに入り、阮朝を助けてフランス軍と激戦を展開したものもあった。劉永福は、清仏戦争(1884〜85)に際しては、清朝側に立ってフランス軍を苦しめている。

捻軍

捻軍ねんぐんは、もともと華北地方の塩の密売業者や無頼の遊民からなるアウトロー集団であった。また「弱きをたすけ、強きをくじく」という任侠的気質から、民衆の支持を受ける一面があった。太平天国がおこると、捻軍は、これに呼応するかたちで窮乏農民を内部に取り込みつつ、華北各地で反乱活動を展開していった。また捻軍のほかにも、太平天国と並行して回民かいみん(イスラーム教徒)の反乱や、白蓮教系結社・会党などの蜂起が各地で発生し、1853年には小刀会しょうとうかいなる会党が上海を占領する事件もおきている。

太平天国の動乱は、清朝政府や正規軍の無力ぶりを明るみにだし、曾国藩や李鴻章ら、反乱平定に活躍した漢人官僚が政治の中枢に進出するきっかけとなった。また反乱平定に際して、地方長官(総督・巡撫)に地方の軍事・行政・財政権をゆだねることは、清末以降の中国の政局の一大特色をなす地方分権への道を開くものであった。巨大な民族運動としての太平天国は、孫文や毛沢東など、その後の民族運動・革命運動に大きな影響を与え、その原点としての位置を占めるものとなった。

このため太平軍は清朝側から「長髪賊ちょうはつぞく」「髪匪はっぴ」などと呼ばれた。

纏足てんそくは、幼女のうちに親指以外の足指を足の裏に折り曲げて布で緊縛し、足を小さくする奇習で、宋以降広まった。纏足は美人の条件とされ、儒教道徳のもとで女性を家庭の外に出さないことにも役立った。

1855年に太平軍の精鋭数万からなる北伐軍が清朝側の反撃により壊滅し、翌年には太平天国首脳部の勢力争いによって東王楊秀清ようしゅうせい・北王韋昌輝いしょうきがともに殺され、翼王石達開せきたつかいが天京を離脱するという事件(天京内乱)がおこった。

参考