シルク・ロード オアシスの道(オアシス・ルート) 東西を結ぶ交通路 内陸アジアの風土と人々 内陸アジア世界の変遷 内陸アジアの風土地図
内陸アジアの風土地図 ©世界の歴史まっぷ

内陸アジアの風土と人々

砂漠や草原あるいは密林に覆われた乾燥地域であり、寒暑の差が非常に激しい。気候はいずれも典型的な大陸性気候である。夏暑く、冬寒く、湿度は全般的に極めて低い。そのうえ、昼と夜の温度差が激しく、降雨量も少ない。したがって生産力に乏しく、生活はしばしば不安定となる。

内陸アジア世界の変遷

内陸アジアの変遷
内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ

内陸アジアの景観を大きく区分すると、森林地帯、草原地帯、オアシス地帯に分けることができる。したがって、それぞれに居住する人々の生活には、それぞれ固有の特色がある。

  • 森林地帯:半猟・半牧の生活
  • 草原地帯:遊牧・狩猟の生活
  • オアシス地帯:家畜と農耕生活、 中継貿易

内陸アジアに居住する民族のうち、オアシス民を脅かし、農耕社会に侵入したのは草原の 遊牧民であった。彼らは、はじめ多くの家畜を移動させ、しかも一定の季節的サイクルで、一定の地域を動く平和な生活を送っていた。しかし、やがてスキタイの騎馬文化を受け入れてから、紀元前4世紀ころ機動力と戦闘力を強め、 騎馬遊牧民として活躍を始めた。彼らは中継貿易にも従事して利益を占めたほか、しばしば農耕地帯に侵入して、農耕民やオアシス民と闘った。
西方で活躍したサルマタイや、東方で豪盛を誇った匈奴は、初期の代表例であり、匈奴に追われて西方に移住した月氏や、エフタル、ウイグル、キスギスもその例である。

突厥 6世紀末の内陸アジア地図 ササン朝
6世紀末の内陸アジア ©世界の歴史まっぷ

オアシス地帯では、東西の交易が行われ、オアシスの道(絹の道、シルク・ロード)が生まれた。交易の中心となったのは、イラン系ソグド人であったが、周辺民族の干渉も盛んであった。このため、6世紀には突厥とっけつの支配がおよび、9世紀にウイグル人の移住が進んでからは、トルコ系の要素が強くなり、 トルキスタンと呼ばれるようになった。またこのころからイスラーム化も一段と進んだ。

13世紀初め、モンゴル高原に現れたチンギス=ハンは、近隣の諸民族をつぎぐつぎと征服し、彼とその子孫は短期間のうちに モンゴル帝国と呼ばれる空前の大帝国をきずいた。中国でも、華北を支配する金朝や江南の南宋が滅ぼされ、13世紀後半には 元朝が成立した。元は中国の諸制度を導入し、征服王朝として君臨した。モンゴル帝国の成立はユーラシア大陸の大部分の統一をもたらし、駅伝制の整備やムスリム商人の活躍により内陸の隊商貿易が盛んになった。また宋代に続いてインド洋経由の海上貿易も活発になり、この2つのルートの接点として元には東西の文物が流入し、都の大都は繁栄を極めた。

遊牧民とオアシス民の活動

内陸アジアの風土と人々

シルク・ロード オアシスの道(オアシス・ルート) 東西を結ぶ交通路 内陸アジアの風土と人々 内陸アジア世界の変遷 内陸アジアの風土地図
内陸アジアの風土地図 ©世界の歴史まっぷ

内陸アジアは、アジア大陸の中央部にあって、東北にはゴビ砂漠の北の外モンゴルと、中国の万里の長城にいある内モンゴルが展開し、さらにトルキスタンからカスピ海西部にかけて広がる大乾燥地帯におよぶ。そして、南はヒンドゥークシュ山脈・カラコルム山脈・ヒマラヤ山脈などによって海洋から遠く隔てられ、北は寒冷なシベリアの森林地帯(タイガ)につながる。東は大興安嶺だいこうあんれいやヤブロノイ山脈に接し、西はウラル山脈やカフカス(コーカサス)山脈などに接する。内陸アジアは、砂漠や草原あるいは密林に覆われた乾燥地域であり、寒暑の差が非常に激しい。

東トルキスタン

(現中国新疆ウイグル自治区)
内部の東トルキスタンは、中央を東西に走る天山山脈によって南のタリム盆地と北のジュンガル盆地に分蹴られる。ジュンガル盆地(ジュンガリア)は、北に3000m以上の山々のそびえるアルタイ山脈によって限られている。南の天山山脈は、東トルキスタンの約4分の1を占める。天山の北麓は森林におおわれているが、南に広がる斜面は乾燥地帯で樹木はない。天山の東の端にあるトゥルファン盆地は、北側に5000m級の山々があり、もっとも低いところは海面下154mである。
南のタリム盆地は、中心にタクラマカン砂漠をかかえ、天山山脈、崑崙山脈、パミール高原などに囲まれている。 タリム盆地の周縁のオアシスは、河川の伏流する扇状地にみられる。

現在の中国新疆しんきょうウイグル自治区にあたる。雪山・峡谷が多く、東トルキスタンは、西トルキスタンにくらべてオアシスの規模が小さい。
西トルキスタン

(カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、アフガニスタン)
西トルキスタンは、北はシベリア草原に接し、南はヒンドゥークシュ山脈に接し、西はカスピ海、東はパミール高原と天山山脈に限られる広大な盆地である。大部分は草原か砂漠であり、内部に アラル海(カザフスタン共和国内にある塩湖。アム川、シル川の二大河川が流入していたが、流入水量の減少により面積が縮小している)がある。

中央アジアにほぼ該当する。大河に恵まれ、比較的大規模のオアシスが多い。
気候

気候はいずれも典型的な大陸性気候である。夏暑く、冬寒く、湿度は全般的に極めて低い。そのうえ、昼と夜の温度差が激しく、降雨量も少ない。したがって生産力に乏しく、生活はしばしば不安定となる。

産業

狭いオアシスと一部の山腹においてのみ農耕が可能で、その地は、 牧畜に依存しており、牧畜が内陸アジアの主要産業となっている。

オアシス:泉地と訳す。砂漠や草原などの乾燥地における地下水の湧出地ゆうしゅつち。また河水の利用が可能な地で、小規模農耕や果樹栽培が可能である。ここに多くの城郭都市が形成された。

牧畜は、羊を基本的な家畜とし、ほかに山羊、馬、牛、ラクダなどを飼う。その基本形態は、 遊牧である。遊牧は、冬営地と夏営地の間を、定期的に移動するのであって、草原を無秩序に移動するものではない。移動は50kmから300kmくらいが多く、まれには800kmの大移動をすることもある。
オアシス農耕は、小麦、大麦などが主で、西トルキスタンでは米もつくる。乾燥地であるため、ブドウなどの果樹栽培がさかんで、それらを乾燥させて保存したり、売ったりする。雪解け水による河川や地下水を利用できる砂漠のオアシス地帯では、オアシス民が定住の農牧生活と隊商貿易を営んでおり、トルキスタンのオアシス地帯ではこのような生活が早くより営まれ、かつ東西を結ぶ陸上の商業貿易路にあることから、中継貿易も盛んに行われていた。

遊牧民

遊牧民は、季節的移動以外に、種々の理由から季節に関係ない移動もおこなっている。

  1. 水・草の悪化、天災、火事、伝染病、戦乱からの逃避、牧地・駐営地取替のための移動
  2. よりよい牧草を積極的に求め、夏・秋は新鮮で栄養のある青草を食わせ家畜を十分に太らせ、冬・春は良い状態の枯草を食わせ、家畜があまり痩せないようにするため、今の牧地を利用しつつ、遊牧単位の一部が、新牧地を求め移動する出張的移動
  3. 駐営地が家畜の糞尿で汚れたため、今の牧地内の別の場所に駐営地をを取り替える移動。

ステップ全域で飼われてきたのは、馬と羊である。それは、それらが自然環境への適応力に富むためでもあるが、またすべての牧民がそれらを衣食住のすべてにおいて必要としたためでもある。つまり馬は乗用(乳も利用)、羊は肉(乳も利用)、毛(フェルト用でその他に利用)のため不可欠である。なお羊のいるところには必ず山羊もいる。羊群には必ず山羊を約3割混入する。その大胆沈着さによって、期の小さな羊を落ち着かせるためである。

基本家畜ともいうべき馬と羊に加えて、森林ステップでは湿潤さを必要とする牛が多く飼われ、砂漠性ステップや砂漠では、乾燥に強くそこに生える草を好むラクダが多く飼われ、砂漠性ステップや砂漠と山岳地帯には粗食に耐え、山を好む山羊が多く飼われてきた。

騎馬と弓の技術に優れた遊牧民の集団が、統率力のある有能な指導者のもとに結びついて、より大きなまとまりを作り、モンゴル帝国のような遊牧国家を樹立することもあった。しかしながら、こうした遊牧国家はいくつかの遊牧民の集団の連合体という性格を持っていたため、それらを結びつける政治的な力が弱まると分裂して、もとの規模の集団に戻った。遊牧国家は特定の部族名を冠した国家であっても、その支配下には異なる遊牧民の集団を含んでおり、さらにはオアシス民や農耕民をも含む混合的構成をしている場合が多かった。

民族

内陸アジアには、さまざまな民族が居住し、複雑をきわめている。そのため言語による分類法が多く試みられている。

東トルキスタン

東トルキスタンでは、インド=ヨーロッパ語系のオアシス民の活躍がみられ、また、トルコ系のウイグル、カザフ、キルギス、ウズベク、タタールがおり、その他の民族も混在するが、ウイグル人がもっとも多い。

西トルキスタン

西トルキスタンでは、イラン系ソグド人による交易が盛んに行われ、モンゴル高原では、アルタイ系騎馬民のモンゴル人やトルコ人が活躍した。

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