元の東アジア支配

フビライ・ハンは、即位前に大理国(雲南)や吐蕃(チベット)を攻撃し(雲南・大理遠征)、さらに淮水わいすい以北の華北の統治を任され、漢人の知識人や軍人を重用して中国風の統治政策を採用した。こうした華北支配を背景に即位したフビライは、中国風の元号をたて、1264年、カラコルムから大都(北京)に都を定め、1271年には国号を中国風にげんと称した。

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元の東アジア支配

内陸アジア
内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ
フビライ・ハンは、即位前に大理国(雲南)や吐蕃(チベット)を攻撃し(雲南・大理遠征)、さらに淮水わいすい以北の華北の統治を任され、漢人の知識人や軍人を重用して中国風の統治政策を採用した。こうした華北支配を背景に即位したフビライは、中国風の元号をたて、1264年、カラコルムから大都(北京)に都を定め、1271年には国号を中国風にげんと称した。
この国号は、易経えききょうの乾の「大哉乾元、万物資始」(大いなるかな乾元かんげん、万物りてむ)にもとづいた。歴代の王朝は、初代皇帝が皇帝になる前の封地の地名から国号をとったが、古典から国号をとったのはこれが初めてである。

大都

現在の北京の直接の起源は元の大都である。1266年、フビライにより金王朝の中都の郊外にまったく新しい壮大な帝都を建設することが命ぜられ、彼の死の直前である1293年に約26年の月日をかけて完成した。大都は、各地に公道が走る内陸交通の起点であるとともに、中心に港をもつ湖水をつくり、運河で海とも繋がる水軍・海軍の起点でもあった。仏教・道教・キリスト教・イスラーム教の施設がたてられ、物資や人、情報は大都に集まった。ただしフビライ自身は大都の宮城に住まうことは少なく、宮廷や軍隊とともに郊外に天幕を張って宿営し、北方にあった上都との間を季節によって移動していた。

その間も南宋への侵攻は続けられ、江南の要衝である襄陽じょうよう鄂州がくしゅうを落とした元軍は、1276年、南宋の首都臨安りんあんを占領した。一部のものは皇帝の一族を擁して南方に逃れ、抗戦を試みたが、1279年、江東沖の崖山の戦いで敗れ、南宋は滅亡した。こうして元朝による中国全土の支配は完成したが、異民族によって中国全土が支配されたのはこれが初めてであった。

元と4ハン国(13世紀の世界地図)
元と4ハン国(13世紀の世界地図)©世界の歴史まっぷ

元朝の領土は、フビライ(ハン)のときに最大となり、モンゴル高原・中国本土・中国東北地方を直轄地とし、チベット・高麗を属国とした。さらに日本征服や南海への遠征を企て、日本をはじめベトナム・カンボジア・ミャンマー(ビルマ)・ジャワに侵攻した(元寇モンゴルのビルマ侵攻)。
1274年と1281年の前後2回の日本遠征(文永の役・弘安の役)は、鎌倉武士の抵抗と暴風雨のため失敗した。
ベトナムの陳朝への3回にわたる遠征は、いったんは首都ハノイを占領したものの民衆の激しい抵抗によって撃退された。
また1292年のジャワ遠征でも、元軍は大損害をこうむり撃退された。

元は中国の君主独裁体制の機構を継承し、中央には中書省(行政)・御史台(監察)・枢密院(軍政)を根幹とする中央集権的支配機構を組織した。地方の行政機構では、従来の州県制を継承し、さらにその上級の行政区画として行中書省こうちゅうしょしょうが設けられ、路以下には監督官としてモンゴル人のダルガチが任命された。

行中書省:本来は中書省の出先機関であり、腹裏ふくりと呼ばれる直轄地(河北・内モンゴル・山西・山東)以外に、10の行中書省がおかれ、路・府・州・県を統率した。略して行省と呼ばれ、現在の中国の地方行政の単位である省という名称は、これをさらに略したものである。

また、中央政府の要職や地方行政機関の長を少数のモンゴル人が征服者として独占した。しかし、圧倒的多数を占める中国人を支配するためには第三者の協力を必要とした。これが色目人しきもくじんと総称されたウィグル、タングート、イランをはじめとする中央アジア、西アジア出身の諸民族である。彼らは元朝の財政面で重要な役割を果たした。

色目人:諸色目人(諸種類の種族に属するもの)の略称であって、目の色とは関係がない。

一方、人口の大多数を占める中国人については、旧金朝支配下の華北の住民は漢人と呼ばれ、また旧南宋支配下の江南の住民は南人と呼ばれた。

淮水以北の中国人(漢族)のほか、契丹人・女真人・渤海人・高麗人が含まれる。

元朝の高級官僚の任用は、世襲や恩蔭おんいんによっておこなわれたために科挙は一時廃止され、中国人の士大夫階級は、高級官僚への道を閉ざされてしまい、末端の実務を担当する胥吏しょりにならざるをえなかった。

恩蔭おんいん任子にんしともいい、皇帝からの恩典として、父祖の官僚によってその子孫も相当の官職につける制度
本来、中国では、高級官僚(官)と下級役人である胥吏しょり(吏)とは厳然と区別され、胥吏から官僚に昇進するものはまれであった。しかし、元朝は官僚を登用する科挙を停止したので、中国人は、胥吏をへて官僚に昇進するしかなく、こうして官僚と胥吏との隔たりはなくなった。

やがて士大夫階級を懐柔するために、14世紀前半、元朝第4代仁宗(アユルバルワダ)が科挙を復活したが、武人や実務に従事する官僚が重視されたため、漢人、南人には不利なものであった。

元は中国全土を征服したが、直接支配できたのは旧金朝支配下の華北だけであり、江南では宋代以来の地主層の勢力が温存され、地主佃戸制が従来通り継続された。
税制面でも、華北ではあらたに税糧ぜいりょう科差かさが施行されたが、江南では南宋以来の両税法が継承された。また、モンゴル人などの支配層は、強力な武力を背景に重税を課したので、中国人農民の元朝への不満は高まった。

税糧:地税・丁税のうち高額の方を課税する制度、科差とは、絹糸と銀を戸ごとに課税する制度で、とちらも江南では適用されなかった。
両税法:五代以後の両税は、田賦(土地にかかる税)に近いものとなり、銭納の原則も忘れ去られて穀額で表示され、穀物で納入された。またその他の税もつぎつぎとつくられ、諸税のなかのひとつの税目となった。しかし農村の主たる税目の地位は動かず夏秋に徴収された。

フビライの死後、元朝内部では皇位継承をめぐる相続争いが続いた。元朝になってからも皇位継承の制度が確立されず、クリルタイで後継者を決定する習慣が残っていたため、一族・重臣の間で激しい権力争いが生じた。

経済上では、宮廷での濫費や、歴代の皇帝によるチベット仏教の信仰や寺院の建立などによって、莫大な国費を費やしたため財政は窮乏した。元朝は、財政難を切り抜けるための交鈔こうしょうを濫発し、専売制度を強化したが、かえって物価騰貴を招き、民衆の生活を苦しめた。

こうした政治の腐敗やインフレに天災や飢饉が加わって、社会不安は増大し、各地で農民の暴動が相次いだ。なかでも弥勒信仰みろくしんこうにより強固に団結した白蓮教徒びゃくれんきょうとは、教主韓山童かんざんどうに指導され、1351年、紅巾の乱白蓮教徒の乱)をおこした。

白蓮教徒びゃくれんきょうと:白蓮教は、弥勒仏の信仰からでたもので、やがて弥勒が降臨して衆生しゅじょうを救済すると説いた(弥勒下生説)この教えをもとに宗教結社がつくられ、反乱を展開した。
韓山童かんざんどう:「徽宗(宋)八世の孫」と称し、モンゴル人王朝の打倒と漢族王朝の復興を呼びかけた。
黄巾の乱をおこした農民たちが目印に紅色の頭巾をまとったことから紅巾の乱と呼ばれた。

韓山童が殺害されたのちも、その子の韓林児かんりんじを擁して黄巾軍が蜂起を続けると、黄河流域から長江流域にかけての各地で元朝打倒を叫ぶ群雄が割拠した。江南デルタの穀倉地帯を奪われ、大都への食料供給も不可能となり、1368年、江南に明(中国)を建国した朱元璋しゅげんしょうが北伐軍を派遣すると、90年間にわたって中国を支配した元朝はモンゴル高原に退いていった。

参考