世界の一体化と銀

15世紀終わりから、ポルトガルとスペインによる新航路の開拓が進み、16世紀には、地球上の大陸や海域は船によって結び付けられ、世界の一体化が始まった。この時期の遠隔地貿易の拡大を支えたのが銀の増産であった。

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世界の一体化と銀

15世紀終わりから、ポルトガルとスペインによる新航路の開拓が進み、16世紀には、地球上の大陸や海域は船によって結び付けられ、世界の一体化が始まった。この時期の遠隔地貿易の拡大を支えたのがの増産であった。

1530年代(戦国時代(日本))には石見銀山(島根県太田市)を中心とした日本銀の産出が増大した。その契機は灰吹法はいふきほうという銀の製錬技術が導入されたことにあった。日本は銀の輸入国であったが、一転して輸出国となり、格段に増産された銀は朝鮮経由で、もしくは直接に、銀の需要が高まっていた中国(明)に流れることになる( 石見銀山遺跡とその文化的景観)。
石見銀山遺跡とその文化的景観
全長600mの龍源寺間歩 (画像出典:日本の世界遺産
灰吹法はいふきほうは、博多から派遣された宗丹と桂樹という朝鮮(中国?)の技術者が伝えたもの。銀鉱石を鉛と一緒に加熱して、銀と鉛の混合物を作り、それを灰の上で加熱すると鉛が溶けて肺に吸収され、銀が残るという中国・朝鮮で行われていた製造方法。
ポトシ銀山の水銀アマルガム法の場合は、鉛の代わりに水銀を用いた。
またスペイン領アメリカのポトシ銀山(ボリビア)では、新しい製錬技術の導入と先住民に強制したミタ労働の導入により1570年代から爆発的な銀の産出が始まった(アメリカ銀もしくはメキシコ銀と呼ぶ)。銀の多くは大西洋を超えてスペイン経由でヨーロッパに運ばれ、価格革命を引き起こした。
ポトシ市街
ポトシ市街 photo credit: tjabeljan BoliviaPotosi006 via photopin (license)

一方で、産出された銀の一部は、メキシコのアカプルコ港から太平洋を横断してフィリピンのマニラにも運ばれた(アカプルコ貿易もしくは16世紀に造船が始まったガレオン船を使用したためガレオン貿易と呼ぶ)。その銀は、マニラから中国商人の船を経て、中国に流れていった。

ミタ労働:1573年に導入されたアンデス周辺の先住民に強制された輪番制の労働システム。安価な労働力を銀山に安定供給することを目的とした。ミタとは輪番・順番を意味するケチュア語。

明朝における銀需要の高まりと海禁政策の実施を背景に活躍したのが、中国人・日本人の密貿易集団であった。1550年代を中心とした16世紀に、彼らは密貿易とともに中国東南沿岸地帯に侵入してさかんに略奪を行なった。これを後期倭寇と呼ぶ。

1567年に明の海禁は緩和され、日本への渡航と日本船の入港をのぞいて、特定の港での貿易が認められた。日本と明との貿易は東南アジア各地の港で行われるようになり、日本町や唐人(中国人)町が形成された。

中国の長江デルタで生産された生糸は、日本やスペイン領アメリカなど各地で求められた。16世紀初めに東アジアに船を進めたポルトガルは1557年にマカオ居住を明に認めさせ、中国交易の拠点とした。1570年代以後、ポルトガルは中国の生糸を日本の長崎に運び、日本の銀を中国に運ぶ日中貿易で大きな利益を得た。しかし、16世紀末からオランダ船が日本に来航し、また日本も朱印船を派遣するようになった。
朱印船
朱印船(荒木船)©Public Domain
朱印船:海外渡航の許可証(朱印状)を得て貿易に従事したもの。豊臣秀吉が制度化し、徳川家康はこれを受け継いだ。大名・豪商を中心として台湾・フィリピン・ベトナム・タイなどに渡った。

オランダは1624年以後、台湾南部にゼーランディア城(安平古堡あんぴんこほう)を築いて貿易の拠点とし、中国人の鄭芝竜ていしりゅうと協力して日本貿易に参加する他の勢力と対立した。

鄭芝竜:中国人の武装商人。平戸の田川氏との間に1624年に生まれたのが鄭成功である。鄭成功は清に滅ぼされた明の復興を進める中で、1662年にゼーランディア城を陥落させてオランダを台湾から追放した。
ゼーランディア城
ゼーランディア城 ©Public Domain

その後、キリスト教宣教師への徳川幕府の弾圧によりポルトガル船はしだいに排除され、長崎での貿易は中国船とオランダ船に限られるようになった。

1635年に日本人の海外渡航・帰国を禁止し、1639年にポルトガル船の来航を禁止した上で、1641年にオランダの商館を長崎の出島に移した。この時点を一般に、いわゆる「鎖国」の完成とする。

世界規模での国際商業が進展する中で、人と物の活発な往来がおこなわれた。アジアの東端に位置する日本にもポルトガル船などによりヨーロッパの技術や文化が流入した(南蛮文化)。日本に1543年に伝わったとされる鉄砲は、大砲とともにアジア全域にさまざまな波動をひきおこし、各地では、この新式の武器の装備が求められた。

鉄砲(火縄銃)は1543年、種子島に漂着した中国商船(倭寇とみられる)に乗っていたポルトガル人により伝えられたとされている。ただし初期の火縄銃の形式により、東南アジアで使われていたものが倭寇によって日本に伝えられたという説もある。
スペイン・ポルトガルの進出地図 ©世界の歴史まっぷ
スペイン・ポルトガルの進出地図

またアメリカ大陸原産の作物の多くが、16世紀のアジアに伝えられた。痩せた土地でも栽培が可能なトウモロコシ、サツマイモ(甘しょ)、ジャガイモ(馬鈴しょ)などはアジア各地に広がり、人々の生活を支えた。タバコの栽培は喫煙の風習とともにアジアを含めた世界各国に広まった。

徳川幕府の喫煙禁止令(1609年)をはじめとして朝鮮や、明・清でも禁止令が出されたが、有名無実化し、葉タバコ栽培と喫煙は定着していった。
一方で、アメリカの西インド諸島の風土病であった梅毒ばいどくもヨーロッパ経由で瞬く間に世界中に広まった。
1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカに到着した翌1493年にスペインのバルセロナで流行した梅毒は、開拓されたインド航路によりアジアに広まり、インドからマレー半島をへて、1512年には日本に上陸した。鉄砲伝来より30年も早い。
梅毒
梅毒に罹患した患者に関する最古のメディカルイラストレーション。ウィーン, 1498年 ©Public Domain

外来作物の名称

生活に密着した外来作物の中には、外来であることを名称に残しているものが多い。サツマイモという名称は薩摩さつま(鹿児島県)のイモという意味であるが、鹿児島ではリュウキュウイモ(琉球(沖縄)のイモ)、そして沖縄ではカライモ(唐(中国)のイモ)と呼んでいる。ジャガイモはジャガラタイモ(ジャカトラ(インドネシアのジャカルタ)のイモ)の略称である。なお日本語の「イモ」は、本来はサトイモをさす言葉であった。トウモロコシは唐のモロコシの意味であるが、地域によってはトウキビ(唐のキビ)・ナンバ(南蛮キビの略)などとも呼ばれている。

参考