モンターニュ派(山岳党)の独裁と恐怖政治
1793年10月16日 マリ=アントワネットの死刑執行(作者不明/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

モンターニュ派(山岳党)の独裁と恐怖政治

独裁権を握ったモンターニュ派は、1793年憲法を人民投票で採択、封建的諸特権の無償廃止を決定した。モンターニュ派の有力指導者マラーが暗殺されると、危機に対応するため恐怖政治が組織され、反革命容疑者の逮捕、裁判の促進がはかられた。王妃マリ=アントワネット、ジロンド派指導者の処刑が続いた。

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モンターニュ派(山岳党)の独裁と恐怖政治

戦争と共和制図
戦争と共和制図 ©世界の歴史まっぷ

独裁権を握ったモンターニュ派は、亡命者財産の売却、共有地分割法などで土地を農民に分配し、1793年憲法を制定し、封建的諸特権の無償廃止を決定した。1789年の封建的諸特権廃止では、封建地代は有償で廃止することになっていた。1793年憲法はジャコバン憲法とも呼ばれ、革命期の憲法のなかでもっとも民主的な内容をもつもので、人民投票で採択が決められた。しかし、革命権まで保障したこの憲法は、平和が到来するまで実施が延期されることになり、結局実施されずに終わった。

政治的・経済的危機は続いていた。地方都市ではジロンド派の蜂起がおこなわれ、対仏大同盟の軍隊はフランスに侵入し、国民総徴用令がだされた。インフレや小麦の不足も深刻であった。

1793年7月13日、モンターニュ派の有力指導者マラー(ジャン=ポール・マラー)が暗殺された。犯人の若い女性シャルロット=コルデーはジロンド派の同調者であった。

危機に対応するための非常措置が強化され、恐怖政治が組織された。公安委員会には、ロベスピエールが入り、権限が強化され、強力な独裁政治の執行機関となった。反革命容疑者の逮捕、裁判の促進がはかられ、革命委員会はあらかじめ容疑者のリストを作成した。

革命委員会:1793年3月に制度化された監視委員会がこの名前で呼ばれるようになったもの。市町村自治体とパリの各地区で政治警察の任務を帯びた。

王妃マリ=アントワネットが10月に処刑されたのち、ロラン夫人などジロンド派指導者の処刑が続いた。最高価格令がだされ、生活必需品・労働賃金の価格統制がおこなわれた。古い伝統が否定され、革命暦が制定され、非キリスト教運動が展開され、理性が崇拝の対象となった。

1793年末から事態は好転した。外国侵入軍は撃退され、国内の反革命内乱も鎮圧された。

革命暦

革命暦
革命暦 部分(1794年カレンダー/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

革命暦は1793年10月5日国民公会で採用が決定された。第1年第1日は、共和国成立の年までさかのぼり、1792年9月22日とした。秋分の日から始まる革命暦は、12ヶ月に四季それぞれに応じ次のような名前をあてた。

  • [秋] ヴァンデミエール(ブドウ月)、ブリュメール(霧月)、フリメール(霜月)
  • [冬] ニヴォーズ(雪月)、プリュヴィオーズ(雨月)、ヴァントーズ(風月)
  • [春] ジェルミナール(芽月)、フロレアール(花月)、プレリアール(草月)
  • [夏] メッシドール(収穫月)、テルミドール(熱月)、フリュクチュドール(実月)

1ヶ月は10日ずつの3旬に分割され、第10日を休日とした。しかし、この旬日制は実施されなかった。1ヶ月を30日とすると1年で5日残るが、これはサンキュロティードという革命祭日として年頭におき、閏年にはこれに1日を加えた。革命暦は1806年のグレゴリウス暦復帰まで用いられ、公文書も、革命暦で記載された。

参考