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ムハンマド=アリー朝

ムハンマド=アリーは、権力を握ると、富国強兵・殖産興業政策を推進し、西欧式の軍事技術をとりいれた近代的軍隊を創設した。スーダンを征服し、奴隷交易をはじめ諸権益を独占し、エジプト近代化のための財源とした。

ムハンマド=アリー朝

西アジアの動向 エジプト

エジプト
1798ナポレオンのエジプト侵入(〜99)
1805ワッハーブ派、メディナ占領
1805ムハンマド=アリー、エジプトの実権を握る
1818ムハンマド=アリー、ワッハーブ朝を滅ぼす
1822ムハンマド=アリー、東スーダンを征服
1831第1次エジプト=トルコ戦争(〜33)
1839第2次エジプト=トルコ戦争(〜40)
1840ロンドン四国条約:ムハンマド=アリー、シリア放棄
1869スエズ運河完成
1875エジプト、スエズ運河会社の株式をイギリスへ売却
1876イギリス・フランス両国によるエジプトの財政管理
1881ウラービー運動(〜82):イギリス・フランス支配に抵抗するも失敗
マフディー運動(〜98):スーダンがマフディー国家樹立
1882イギリス軍、エジプトを占領、保護化
参考:山川 詳説世界史図録
ムハンマド=アリーは、権力を握ると、まずマムルーク軍人を計略を用いて殺戮さつりくし、これにかわり徴兵制を導入し、西欧式の軍事技術をとりいれた近代的軍隊を創設した。検地を実施し(1813〜14)、徴税請負制(イルティザーム)を廃止し農地からの直接課税をおこなった。灌漑施設の整備によって農地を拡大し、綿花をはじめとする商品作物の作付けを強制し、これを専売制によって廉価で購入し、内外に販売して利を稼いだ。また、織物をはじめ機械制の近代工場を設立するなど、富国強兵・殖産興業政策を推進した。このような政策に必要な人材の供給のため、お雇い外国人のほか、各種の専門学校や印刷所を設立し、ウラマーにかわる新知識人層が育成された。

対外政策の面では、新編制の軍を用いて海外派兵をくりかえした。1811年には、オスマン帝国スルタンの命をうけ、アラビア半島の聖地メッカを押さえるワッハーブ王国の討伐のため長子イブラーヒームを派遣し、首都ダルイーヤを陥落させた(1818)。続いて1818〜20年にはスーダンを征服し、奴隷交易をはじめ諸権益を独占し、エジプト近代化のための財源とした。

オスマン帝国の領土縮小地図

ムハンマド=アリーは、このような遠征の成功によって自信を深め、1824年には、スルタンの要請に応えて、ギリシア独立戦争の鎮圧のためにペロポネソス半島へ出兵した。31年にはこの出兵の代償として約束されていたシリアの領有を要求して、シリアに遠征し、オスマン軍を破って北上し、西アナトリアまで侵入した。あわてたオスマン帝国側は、ロシア、そして英・仏の介入を要請し、33年キュタヒヤ条約 Kütahya を結び、ムハンマド=アリーにシリアの領有を認めた。39年には、オスマン帝国からの完全独立を求めて再び戦火が切られ、エジプト海軍はイスタンブルに迫った。1840年イギリス・ロシアなどがロンドン四国条約を結んでこれに介入し、英軍に敗れたムハンマド=アリーは条約の要求をのみ、総督職の世襲権とひきかえにシリアから撤退し、兵力は大幅に削減された。列強に対するこの敗北によっって、ムハンマド=アリーの富国強兵策は挫折し、また貿易の国家独占を改め、国内市場を解放することとなった。

オスマン帝国支配の動揺と西アジア流れ図

54.オスマン帝国支配の動揺と西アジア
54.オスマン帝国支配の動揺と西アジア流れ図 ©世界の歴史まっぷ

参考

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