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プロイセンとオーストリアの絶対王政

長い間戦場となったドイツは、約300の領邦に分裂して混乱するなか、三十年戦争の被害を比較的まぬかれていた、ホーエンツォレルン家のプロイセンと、ハプスブルク家のオーストリアが18世紀に勃興し、オーストリア継承戦争、七年戦争で戦う。

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プロイセンとオーストリアの絶対王政

三十年戦争で、長い間戦場となったドイツ各地は深刻な被害をうけた。政治的にもおよそ300の領邦(小国家)に分裂して、混乱状態にあった。しかし平和が訪れて以来、こうした状態の中からプロイセンオーストリアが台頭しはじめた。この2つの領邦は、三十年戦争の被害を比較的まぬかれていたことが、勃興のひとつの背景となっていた。

17世紀初めにプロイセン公国を併合したブランデンブルク辺境伯のホーエンツォレルン家は、ベルリンを首都として、18世紀初めから王国を形成した(プロイセン王国)。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(プロイセン王)(位1713〜1740)のもとで、伝統的な領主貴族(ユンカー Junker)出身者を官僚・将校とする、いわば軍国主義的な絶対王政をつくりあげた。

ついで即位したフリードリヒ2世(プロイセン王)(フリードリヒ大王 位1740〜1786)も、王領地の農民を保護し、産業の育成と軍備の強化に努めた。また、オーストリア継承戦争でシュレジエン(シレジア)を獲得し、七年戦争後のフベルトゥスブルク条約で再確認させた。彼は、フランスのヴォルテールら啓蒙思想家とも親しく交わり、フランス文化に心酔してドイツ文化を嫌ったといわれる。「君主は国家の第一の下僕である」と称して、国民の福祉の増進に努めようとするなど、いわゆる啓蒙専制君主のひとりとなった。

フリードリヒ2世(プロイセン王)
フリードリヒ2世(プロイセン王)(アントワーヌ・ペスヌ 画)©Public Domain

啓蒙専制君主

ヴォルテールなどの啓蒙思想の影響をうけながら、中央集権化、近代化を推し進めた18世紀の専制君主。このような君主は、中・東欧に多く、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエカチェリーナ2世などがあげられる。彼らは、啓蒙思想の影響で、一般に農民保護などの社会改革をめざす開明的な一面をもっていたが、他方では、国内の経済発展が未熟で貴族に対抗すべきブルジョワがなお力をもっていなかった、みずから「上からの改革」に乗りださざるをえなかった。

オーストリアのハプスブルク家は、15世紀以降、神聖ローマ皇帝を世襲してきた。フランスと結んだオスマン帝国の侵攻にしばしば悩まされ、1529年と1683年には、首都ウィーンを包囲された。( オスマン帝国の拡大 – 第1次ウィーン包囲, 第2次ウィーン包囲  )しかし、この危機を脱したのちはカルロヴィッツ条約(1699)でハンガリーの支配権を確立し、11の民族からなる多民族国家として、ヨーロッパ有数の強国にのしあがった。

しかし1740年に男子の相続者が絶え、父カール6世(神聖ローマ皇帝)の残した「プラグマティッシェ=ザンクティオン(王位継承法)」に従って、皇女マリア・テレジア(位1740〜1780)がハプスブルク家の領土をつぐと、フランスやプロイセンが異議を唱えて開戦した(オーストリア継承戦争 1740〜1748)。この戦争でマリア・テレジアはオーストリア王位の継承は承認されたが、シュレジエンの領有は認められなかった。このためマリア・テレジアは、1756年には宿敵ブルボン家のフランスと結ぶという思い切った政策をとって、シュレジエンの奪回をめざした(七年戦争 1756〜1763)が、やはり成功しなかった。即位後のマリア・テレジアは、中央集権化をめざして行政・軍事・税制などの改革に努め、商工業の振興など富国強兵をはかることで、プロイセンに対抗しようとした。農民の保護をめざして農業改革を実践したのも、オーストリアの国力の回復をねらってのことであった。

1765年から母マリア・テレジアと共同統治を始めたヨーゼフ2世(位1765〜1790)は、カトリックを守るべき立場の神聖ローマ皇帝を兼ねていたにもかかわらず、宗教の自由を認め、教育や税制の改革、農奴解放をさえ試みたといわれる典型的な啓蒙専制君主であった。しかし、ネーデルラントやハンガリーで反乱がおこり、教会勢力の反発もあって、その政策は十分な効果をあげることができなかった。

18世紀なかばのプロイセン・オーストリア地図
18世紀なかばのプロイセン・オーストリア地図 ©世界の歴史まっぷ
マリア・テレジア
マリア・テレジアとその家族(Martin van Meytens画)©Public Domain

画面右側、椅子に座り指で自分を指している女性がマリア・テレジア。夫フランツ1世(神聖ローマ皇帝)も左手で彼女を指しているが、長男ヨーゼフ2世も同様の仕草をしている。また、この絵には多数の子供が描かれているが、彼女は合計16人を出産した。

略年表

ヨーロッパ主権国家体制の展開

  
1562ユグノー戦争(〜98)
1571レパントの海戦
1572サン・バルテルミの虐殺
1580スペイン、ポルトガルを併合
1581オランダ独立宣言
1588イギリス、スペイン無敵艦隊を撃破(アルマダの海戦)
1589フランス、アンリ4世(フランス王)即位(〜1610)ブルボン朝
1598フランス、ナントの王令、ユグノー戦争終結
1603イギリス、シュチュアート朝(〜1714)
1607イギリス、ヴァージニア植民地設立
1613ロシア、ロマノフ朝成立(〜1917)
1618ドイツ三十年戦争(〜48)
1620メイフラワー号、プリマス着
1628イギリス、権利の請願
1640イギリス、ピューリタン革命開始(〜49)
1643フランス、ルイ14世即位(〜1715)
1648ウェストファリア条約
1649イギリス、チャールズ1世処刑、共和制となる(〜60)
1651イギリス、航海法
1652イギリス・オランダ戦争(〜74)
1653イギリス、クロムウェル、護国卿となる
1660イギリス、王政復古
1682ロシア、ピョートル1世即位(〜1725)
1688イギリス、名誉革命

参考

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