プラッシーの戦いとイギリスのアジア経営
1757年6月23日プラッシーの戦いでのイギリスの銃 ©Public Domain

プラッシーの戦いとイギリスのアジア経営

1757年プラッシーの戦いでフランス・地方支配者連合軍に勝利したイギリスは、ベンガル地方における支配権を確立。イギリス東インド会社は商社から植民地統治機構に変わっていった。1773年、インド産アヘンを専売とし中国からの茶の輸入の支払いにあて、アヘン戦争をひきおこす引き金となった。

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プラッシーの戦いとイギリスのアジア経営

ヨーロッパで七年戦争(1756〜1763)( プロイセンとオーストリアの絶対王政)が始まると、戦火はアジアにも広がった。1757年、カルカッタの北で書記ロバート・クライヴの率いるイギリス東インド会社がフランス・地方支配者(ベンガル州総督)連合軍を破り(プラッシーの戦い)、ベンガルにおけるフランス勢力は決定的な打撃をうけた。また、この戦いによって、ムガル帝国のベンガル州総督が完全にイギリスの傀儡かいらいになってしまったことで、イギリスのインド支配の基礎が固まった。敗れたフランスは、この戦いで本国の国家財政がしだいに傾き、革命の遠因とさえなった。

1763年の世界地図
1763年の世界地図 ©世界の歴史まっぷ

勝利したイギリスは、ベンガル地方における支配権を確立し、ディワーニ(徴税権)を獲得した。この結果、東インド会社はしだいに、商社から植民地統治機構に変わっていった。こうした領土支配は、1774年ウォーレン・ヘースティングズ(1732〜1818)が初代ベンガル総督となると、さらに強まった。18世紀後半以降、中国からの茶の輸入が激増したため、イギリス東インド会社は1773年、インド産アヘンを専売とし、清朝が鎖国(海禁)政策を強化したために唯一の交易港となった広東カントンにこれを送って、支払いにあてた。このことが、のちにアヘン戦争をひきおこす引き金となった。

参考