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ドイツ

ドイツ
帝国主義時代のヨーロッパ諸国ードイツ ©世界の歴史まっぷ

ドイツ

ドイツ政府は帝国主義的な膨張政策を展開して反体制派や労働者を体制内に統合し、市民の側でも全ドイツ人による大帝国建設を求めるパン=ゲルマン主義を支持する傾向が強まり、反ユダヤ主義やポーランド人などの外国人労働者排斥運動と結びついた。

ドイツ

1878年の世界地図 イギリス
1878年の世界地図 ©世界の歴史まっぷ

帝国主義時代のヨーロッパ諸国 ドイツ

 ドイツ国内 ドイツ国外
1871ドイツ帝国成立
帝国宰相 ビスマルク
文化闘争(〜80)
1870プロイセン=フラン戦争(〜71)
エルザス・ロートリンゲン獲得
1875ドイツ社会主義労働者党成立(ゴータ綱領)1873三帝同盟締結(独・澳・露)
1878社会主義者鎮圧法成立1878ベルリン会議 ビスマルク「誠実な仲立ち人」→ ロシアの南下政策阻止
1879保護関税政策 → 工業化1879独墺同盟締結
1883ビスマルク、社会保険制度実施(〜89)1882三国同盟締結(独・墺・伊)
1888ヴィルヘルム2世<(ドイツ皇帝)/strong>即位(〜1918)1884ベルリン=コンゴ会議(〜85)
1890ビスマルク、辞職
世界政策(ヴィルヘルム2世)
社会主義者鎮圧法廃止
1884トーゴ、カメルーン領有
独領南西アフリカ成立
ビスマルク諸島領有
ドイツ社会主義労働者党、社会民主党と改称(エルフルト綱領)18911885独領東アフリカ成立
1886マーシャル諸島領有
1887独露再保障条約締結(〜90)
1896社会民主党のベルンシュタイン、修正主義を主張1899バグダード鉄道敷設権獲得 → 3B政策
1898建艦政策始まる → イギリスとの建艦競争へ
パン=ゲルマン主義広まる
1905第1次モロッコ事件
マジ=マジ闘争(東アフリカ 〜07)
1906アルヘシラス会議
1912社会民主党が第一党に躍進1911第2次モロッコ事件

ドイツ帝国では、ビスマルクがヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)との強い信頼関係の長期政権を維持していたが、現状維持的な政策には手詰まり感が漂いはじめていた。1888年、ヴィルヘルム1世が高齢で亡くなった。イギリス流の自由主義的な思想をもつと目されていたフリードリヒ3世(ドイツ皇帝)が帝位を継いだが、3ヶ月余の治世で咽頭がんのため病没し、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)(位1888〜1918)が29歳で新皇帝に 即位した。折から、ルール地方の鉱山労働者から始まったストライキが全国に広まりつつあり、若い皇帝は労働者勢力を体制側に取りこもうと社会主義者鎮圧法の延長を拒否してビスマルクと対立した。ビスマルクは1890年の帝国議会選挙に敗れて辞任した。ビスマルクの失脚はドイツ外交にも影響した。期限切れの迫っていたロシアとの再保障条約は、三国同盟などと矛盾することを理由に、更新されなかった。

ビスマルク外交 パン=ゲルマン主義 ビスマルク外交による同盟網
ビスマルク外交による同盟網 ©世界の歴史まっぷ

ヴィルヘルム2世と「黄禍論」

黄禍論
黄禍の図(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)の母親であるヴィクトリアは、同名の偉大なイギリス女王ビクトリアとアルバート公の間に生まれた長女であった。したがって、ヴィルヘルムはヴィクトリア女王の孫にあたる。両親の方針で甘えの許されぬ、きわめて厳格な育てられかたをしたため、ヴィルヘルムは母親が実家からもたらしたリベラリズムに反発し、保守的な政治信条を抱くにいたった。皇帝は人種論的な進化論に彩られた白人優越論の信奉者しんぽうしゃであり、黄禍論おうかろんの初期の提唱者となった。黄禍論とは、自分たちよりも劣っているはずのアジアの黄色人種が世界とヨーロッパに災いをもたらすであろうという政治宣伝である。1895年ころ、ヴィルヘルム2世は母方の従姉妹の配偶者であるロシア皇帝ニコライ2世に「黄禍論の図」を贈り、中国への警戒心をあおった。画面右では、もうもうたる雲気から仏陀の姿がわきあがり、画面左にはヨーロッパの諸民族を形象化した女神たち(マリアンヌ=フランス、ゲルマニア=ドイツなど)がキリスト教の守護天使ミカエルとともに仏教と野蛮の侵入を武装して迎え撃とうとしている。東南アジアに古くから華人社会をきずいている中国人は将来の通商上のライヴァルとみなされ、義和団事件の勃発や日露戦争での日本の勝利もあったりして、モンゴルやオスマン帝国の侵入をうけてきたヨーロッパは未来への漠然たる不安感を抱いたのである。

1890年代以降、ドイツでは高度工業化が急速に進展し、20世紀初頭には第2次産業が生産額、就業人口とも第1次産業を上回り 、ドイツは工業国家に転換した。伝統的な基幹産業である石炭・鉄鋼などの重工業に加えて、化学工業や電気工業などの先端技術を駆使した工業分野で世界をリードした。クルップ・ジーメンス・AEGなどの大企業がたちならび、ドイツ銀行などの巨大銀行が資本を提供した。

1860年まで生計を農業に依存する人々は全人口の70%であったが、1907年ころにはそれは28.4%に低下し、人口の42.4%が第2次産業で働いていた。しかし、地域的格差も大きく、東エルベの低収入の農業地帯から西部の振興工業都市へ人口移動がみられた。

他方、プロイセンのユンカー層は軍と官僚組織を掌握してドイツ帝国に権威主義的性格を与えつづけた。しかし、農業に依存するユンカーの経済的地位の低下と政治への強い影響力との間の不釣り合いがめだつようになってきた。それだけに、市民的諸勢力が帝国議会の政党を通じて政策決定に影響をおよぼすことも可能となった。しかし、ブルジョワジーのなかには貴族風の生活スタイルを模倣したり、子弟に将校のキャリアをつませるなど、上層市民の「封建化」と呼ばれる現象も現れた。1890年代後半、ヴィルヘルム2世は、重工業家とユンカーという帝国の二大エリートの利害を調整しつつ、帝国主義的な膨張政策を特徴とする「世界政策」に乗りだした。海軍の増強と植民地の獲得は産業界の利益となり、それとひきかえに東エルベの農業エリートに有利なように穀物関税が引き上げられた 。「陽のあたる場所を求めて」世界へ進出するにはイギリスに対抗する海軍力が必要と考えられ、ティルピッツ提督 Tirpitz (1849〜1930)のもとで海軍の大幅な拡張計画が実施された。イギリスも巨砲主義の大型戦艦を建造して建艦競争に乗りだし、国際関係は英・独の対抗軸を中心に展開するようになった。

そのため、穀物輸出国であるロシアとの関係は悪化した。また、都市の消費者の生活を圧迫するものであったので、労働者のための社会福祉制度が設けられた。このように、さまざまな社会層や利益集団の利害を調整し、「結集」する必要があった。

工業化の進展とともに、企業の管理部門を担う事務職員(ホワイトカラー)の従業員の数が急速に増加して新しい中間層を形成した。彼らは職業選択の背景となる学歴の点や、都市に生活する俸給生活者として、賃金労働者とは区別される社会層となった。重工業資本家、化学工業など振興工業の資本家、農業エリートのユンカー、中小農民、新旧中間層、労働者などさまざまな社会層の利害を代表する利益団体の組織化も進んだ。これらの諸団体は諸政党とも連携しつつ、政策決定に影響をおよぼしていった。石炭・鉄鋼などの重工業界によって設立された大衆組織であるドイツ艦隊協会は政府の艦隊増強計画のプロパガンダ活動を引きうけ、国民に世界強国の夢をふりまいた

艦隊協会はティルピッツによって設立され、クルップら工業家が参加した。反ユダヤ主義・反社会主義の超国家主義的団体であった。

ヴィルヘルム時代の内政で特筆すべきは社会民主党の躍進と労働運動の発展である。1890年の合法化後、ドイツ社会民主党の躍進は著しく、1912年の議会選挙では得票率38.8%で110議席(議席獲得率27.7%)を獲得して第一党隣、党員数も100万を超えた。帝国の政治指導者にとって最大の敵とみなされた社会民主党は、1891年のマルクス主義的なエルフルト綱領 Erfurter Programm で革命による資本主義の打倒、労働者の解放を党の任務として掲げていた。しかし、実践的にはフェビアン協会の理念などの影響をうけたベルンシュタイン Bernstein (1850〜1932)が議会主義的な改革の路線を唱えた。この立場は修正主義として批判にさらされ、カウツキー Kautsky (1854〜1938)らのマルクス主義中央派が党内の指導権を確立したが、組織至上主義となって体制内化していった

ポーランド出身の女性革命家ローザ=ルクセンブルクは修正主義論争のなかで頭角を現し、大衆ストライキの直接行動を要求した。カール=リープクネヒトらと党内急進派を形成し、第一次世界大戦が始まると獄中から反戦運動を指導し、スパルタクス団を結成した。

社会民主党系の労働組合の発展も著しく、1912年には組合員数は256万人に達した。政治的な路線闘争よりも共済制度や福利厚生事業による労働者保護を重視する労働組合の動向は、社会民主党の急進主義からの後退に影響を与えた。政府は帝国主義的な膨張政策を展開して反体制派や労働者を体制内に統合し、市民の側でも全ドイツ人による大帝国建設を求めるパン=ゲルマン主義を支持する傾向が強まった

パン=ゲルマン主義は、オーストリアばかりでなく東欧もふくめてドイツ国外の全ドイツ人の民族的結集をはかり、ドイツ帝国の世界覇権をめざすイデオロギーであった。このイデオロギーは支配層から小市民層まで幅広い社会層を結集した「全ドイツ連盟」によって唱えられた。また青年組織から在郷軍人会までナショナリズムを鼓吹し、ドイツ社会は深くミリタリズム(軍国主義)が浸透していった。

このようなナショナリズムは反ユダヤ主義やポーランド人などの外国人労働者排斥運動と結びついた。1912年の社会民主党の勝利は、反帝国主義闘争をすてて有権者の現実的要請に応じた結果えられたものでもあった。

反ユダヤ主義

ユダヤ人の解放はフランス革命以来の課題であり、実際19世紀の西ヨーロッパではユダヤ系市民は職業選択の自由や参政権を獲得していった。その結果、ドイツのメンデルスゾーン家のような著名な音楽家や芸術家も輩出した。

しかし、他方では、進化論が社会思想や国家論に応用されて、国家や民族間の闘争においては、ある人種は他の人種に優越するという学説(社会進化論)が現れるようになった。その差別意識は帝国主義的侵略の犠牲となったアフリカの人々などにむけられたが、ナチス=ドイツに顕著にみられるように振興のユダヤ系大資本家への反発などと結びつくと人種論的反ユダヤ主義となった。他方、19世紀末のロシア・東欧では深刻な社会的危機の際に社会的異分子としてのユダヤ人に集団的暴行・虐殺を加える事件がおきた。ロシアではこれを、ポグロムと呼んでいる。農奴解放後のアレクサンドル2世暗殺直後、1905年のロシア革命前後、そして1917年のロシア革命とそれにともなう内戦の時期にポグロムは多発した。

参考

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