カルヴァンの改革 新旧両教派の分布地図 ドイツにおける宗教改革運動の展開
新旧両教派の分布地図 ©世界の歴史まっぷ

ドイツにおける宗教改革運動の展開

  • 1522〜1523年 騎士戦争 失敗
  • 1524〜1525年 ドイツ農民戦争 内部の分裂と諸侯の武力により過酷に鎮圧
  • 1529年 オスマン軍、ウィーン包囲
  • 1530年 アウクスブルク帝国議会
  • 1546〜1547年 シュマルカルデン戦争
  • 1555年 アウクスブルクの和議 ルター派承認

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ドイツにおける宗教改革運動の展開

マルティン・ルターの改革運動は、諸侯・騎士・市民・農民を巻きこんでドイツの社会に影響を与えた。1522年、フランツ・フォン・ジッキンゲン(1481〜1523)やウルリヒ・フォン・フッテン(1488〜1523)らの指導する騎士戦争がおこった。ルターの改革を支持するライン下流の帝国騎士の反乱である。彼らは時代の変化のなかで没落しつつあったが、民族主義の立場からローマ教会の権威を攻撃し、教会・諸侯領の奪取をはかったが、諸侯や市民ら他の階層の支持をえられず、失敗に終わった。

1524年、ドイツ西南地方で農民反乱(ドイツ農民戦争)がおこり各地に拡大した。聖書の精神にかえり「神の前に万人が平等である」とするルターの教えを、農民は自分たちの要求と結びつけようとしたのである。彼らが掲げた十二カ条には、賦役の軽減、十分の一税の撤廃、聖職者を選ぶ権利などが「聖書」を根拠に要求されている。ルターもそれを妥当なものとして支持し、その受容を領主に勧告した。しかし、反乱は中部ドイツに移り、再洗礼派とも近い主張をもち、急進的な改革を唱えるトマス・ミュンツァー(1490頃〜1525)らの指導のもとで、鉱山労働者・職人・貧農たちを中心に反乱が過激化した。破壊と流血ざたが激しくなると、ルターはこれを厳しく避難、領主らに武力弾圧を呼びかけた。ドイツの3分の2に広がった農民の反乱は、1525年7月内部の分裂と諸侯の武力により過酷に鎮圧された。

反乱鎮圧後、農民のなかにはルターから離れるものも多かったが、ルター派の運動は、反カトリック・反皇帝派の諸侯と都市を中心に推進されていく。多くの領邦君主は、領内の教会を教皇権から独立させ「最高の司祭」としてその保護支配権を掌握した(領邦教会制)。ルター派の都市・領邦君主はカトリックの教会組織をつうじてドイツに権威を維持しようとする皇帝と対立した。皇帝は、1529年シュパイアーの国会(シュパイアー帝国議会)において、ルター派を禁止し、ルター派の諸侯や都市はこれに抗議 protest した。彼らは抗議者(プロテスタント)と呼ばれた。

一方、ローマ教皇は、スペイン王位を兼ねるハプスブルク家のドイツ皇帝の勢力拡大を恐れ、フランス王国と結び、ドイツ皇帝と対立した。フランソワ1世(フランス王)は、オスマン帝国と結びドイツに圧力を加えた(ウィーン包囲)。こうした情勢のなかで皇帝も一定の妥協を迫られた。1530年アウクスブルク帝国議会では、ルター派の人文主義者フィリップ・メランヒトン(1497〜1560)が両者の調停をはかりアウクスブルクの信仰箇条(アウクスブルク信仰告白)を起草した。しかしこれはカトリックに拒否され、妥協は成立しなかった。プロテスタント諸侯と都市はシュマルカルデン同盟を結んで旧教派に対抗した。1546〜1547年、皇帝・旧教派とプロテスタント勢力の間にシュマルカルデン戦争がおこった。

1555年アウクスブルクで開催された国会でひとつの妥協が成立した。アウクスブルクの和議はルター派の諸侯にも信仰の保持を認めて「領主の宗教がその領土でおこなわれる」という原則(領邦教会制度)を確認した。ルター派はドイツに根をおろし、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンなど北欧諸国にも拡大した。
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参考