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スペイン絶対王政の確立

スペインは1494年のトルデシリャス条約を根拠として、西半球の大半の領有権を主張していたが、さらに1580年には、アフリカ遠征で国王が戦死し、血統の耐えたポルトガルをも併合して、全イベリア半島の政治的統合を果たした。この結果、同時にほぼ全世界の植民地を一手におさめることになり、アメリカの銀を有力な財源とする「太陽の没することのない」世界帝国を形成した。

スペイン絶対王政の確立

イベリア半島では、1479年にカスティリャ王国とアラゴン王国が合併して、スペイン王国が成立した( スペインとポルトガル)。この国では、フェルナンド5世(カスティーリャ王)とイサベル1世(カスティーリャ女王)(「カトリック両王」という)のもとで、封建貴族に対抗して都市と手を結んだ王権が強力になった。

以後歴代国王は、ローマ・カトリック教会の勢力をも背景に、異端審問など厳しい宗教政策を展開した。1492年には、最後に残ったイスラーム教徒の拠点、ナスル朝の首都グラナダを陥落させ、1492年にはユダヤ人、1502年にイスラーム教徒を、それぞれ追放した。数世紀におよんだ国土回復運動(レコンキスタ)が、ここで完成したということができる。

他方ポルトガル王国は、早くも12世紀にレコンキスタの過程でカスティリャから独立し、13世紀にはレコンキスタを完了した。15世紀初めにはエンリケ航海王子のもとで、アフリカのセウタを占領し、アフリカ西海岸を中心に対外進出に乗りだしていた。

グラナダ陥落によってようやくレコンキスタを完了したスペインは、このポルトガル王国とともに1493年、教皇名による分解線を設定、翌年、教皇抜きでこれを修正したトルデシリャス条約によって世界の2分割をはかった。さらにこうしてスペインは、対外的にも広大な植民地を獲得して世界帝国となっていった。

しかし国内的には、スペインはカスティリャ・バレンシア・アラゴン・カタルーニャなど、地方分権的な性格がきわめて強く、国民国家としての統合は十分ではなかった。1516年には、オーストリアのハプスブルク家からでたカルロス1世(スペイン王)(位1516〜1556)が即位し、ヴァロワ朝フランスのフランソワ1世(フランス王)(位1515〜1547)と争って神聖ローマ帝国にも選出された(カール5世(神聖ローマ皇帝)(位1519〜1556))彼の即位には、トレドなどの都市勢力が強く反対し、いわゆるコムネーロスの反乱(1520)をおこした。この反乱を鎮圧したカルロス1世(スペイン王)は、議会の抵抗をも抑えて、スペインに絶対王政を確立した。

16世紀なかばのヨーロッパ詳細版 – 世界の歴史まっぷ

こうしてカルロス1世(スペイン王)は、ネーデルラントのブルゴーニュ公領をはじめ、ヨーロッパ大陸に広大な領土を獲得した。また、プロテスタント派諸侯の抵抗を排しながら、キリスト教世界の統一をねらってイタリア戦争( イタリア戦争)を続けた。しかし、1556年には王室財政が破綻したため、退位せざるをえなくなった。皇帝位は弟フェルディナント1世(神聖ローマ皇帝)(位1556〜1564)がつぎ、スペインの王位は息子のフェリペ2世(スペイン王)(位1556〜1598)に譲った。

即位後のフェリペ2世(スペイン王)は、1559年にカトー・カンブレジ条約を結んで、長期にわたったイタリア戦争に終止符をうった。しかし国内では、とくに外国書籍の輸入禁止や出版規制をおこなうなど、異端の弾圧を強化した。また外にむかっても、宗教戦争下のフランスに介入したほか、カトリック教徒でフェリペの妻であったメアリ1世の後継者として、プロテスタントのエリザベス1世(イングランド女王)が登位したイギリスとも、険悪な関係となった。
フェリペ2世(スペイン王)
フェリペ2世(スペイン王)(アントニス・モル画)©Public Domain

スペイン絶対王政を代表する国王で、同時に16世紀後半のカトリック勢力の指導者であった。しかし、新教徒の弾圧は、国内産業の発達を阻害し、ネーデルラントの反乱を招いた。

しかしこの時代に、スペインの最大のライバルとなったのは、ビザンツ帝国を滅ぼして地中海に進出してきたオスマン帝国 オスマン帝国の拡大)である。カルロス1世以来、キリスト教(カトリック)世界とヨーロッパの盟主を自認していたスペインにとって、オスマン帝国との対決はさけられない宿命であった。フェリペ2世は1571年、オスマン帝国をレパントの海戦で破り、地中海の制海権を握って対抗宗教改革 カトリックの改革)を推進するカトリックの盟主となった。

レパントの海戦

レパント沖の海戦では、スペイン・ローマ教皇・ヴェネツィアの連合軍の艦隊208隻が、オスマン帝国海軍の250隻と対戦し、双方に2万人以上の死者をだした。アクティウムの海戦(紀元前31)以来の大海戦といわれ、ヨーロッパ側では、スペインがイスラーム勢力からキリスト教世界を防衛した戦いとみなされてきた。『ドン・キホーテ』の作者ミゲル・デ・セルバンテスは、この戦いで左腕を失った。

レパントの海戦
レパントの海戦 (作者不明/National Maritime Museum蔵) ©Public Domain

レパント沖の海戦:スペイン・ローマ教皇・ヴェネツィアの連合軍はレパント沖で、1571年10月、オスマン帝国の海軍を打ち破った。4時間の戦闘で117のオスマン帝国の軍艦を撃沈または捕獲した。

ところで、スペインはすでに1494年のトルデシリャス条約を根拠として、西半球の大半の領有権を主張していた。さらに1580年には、アフリカ遠征で国王が戦死し、血統の耐えたポルトガルをも併合して、全イベリア半島の政治的統合を果たした。またこの結果、同時にほぼ全世界の植民地を一手におさめることになり、アメリカの銀を有力な財源とする「太陽の没することのない」世界帝国を形成した。

もともとスペインでは、牧羊者組合(メスタ)( スペインとポルトガル)が力をもち、それが生産する羊毛を使って都市に毛織物工業が展開していたが、アメリカで銀が発見されて以後は、ほとんどこれに頼るようになった。16世紀中ごろ、水銀を用いる画期的な銀鉱石の処理方法が導入されたこともあって、ペルーのポトシ銀山、メキシコのサカテカス銀山を中心に銀の生産が急増し、スペインの繁栄も頂点に達した。

しかし、ネーデルラントに独立運動がおこり、この鎮圧のために膨大な戦費を要するようになった。そのうえ、やがてアメリカからの銀の供給も減少してしまったため、スペインの繁栄は長くは続かなかった。その担い手であったムスリムを追放したことが主な原因となって、毛織物工業などの手工業が衰退してしまったことも、スペインの経済的没落の一因であった。

1588年にはスペインの誇った無敵艦隊(アマルダ)が、ヘンリー8世(イングランド王)の宗教改革以来、宗教問題やアメリカの領有権をめぐって対立の続いていたイギリスの海軍に大敗し、政治・軍事的にも衰退にむかった。このような衰退過程を決定的にしたのは、17世紀初頭になって、アメリカからの銀の流入が激減したことである。また1640年には、イギリスの援助をうけたポルトガルが、ブラガンサ朝のもとに再独立を果たした。

略年表

ヨーロッパ主権国家体制の展開

  
1562ユグノー戦争(〜98)
1571レパントの海戦
1572サン・バルテルミの虐殺
1580スペイン、ポルトガルを併合
1581オランダ独立宣言
1588イギリス、スペイン無敵艦隊を撃破(アルマダの海戦)
1589フランス、アンリ4世(フランス王)即位(〜1610)ブルボン朝
1598フランス、ナントの王令、ユグノー戦争終結
1603イギリス、シュチュアート朝(〜1714)
1607イギリス、ヴァージニア植民地設立
1613ロシア、ロマノフ朝成立(〜1917)
1618ドイツ三十年戦争(〜48)
1620メイフラワー号、プリマス着
1628イギリス、権利の請願
1640イギリス、ピューリタン革命開始(〜49)
1643フランス、ルイ14世即位(〜1715)
1648ウェストファリア条約
1649イギリス、チャールズ1世処刑、共和制となる(〜60)
1651イギリス、航海法
1652イギリス・オランダ戦争(〜74)
1653イギリス、クロムウェル、護国卿となる
1660イギリス、王政復古
1682ロシア、ピョートル1世即位(〜1725)
1688イギリス、名誉革命

参考

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