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ギリシア独立戦争 (1821〜1829)

ナショナリズムの精神は、当時オスマン帝国の支配下にあったギリシアにおいても高揚した。19世紀初め、イプシランティが率いるヘタイリアが結成され、ギリシアの独立をめざしたが、1821年になって武力闘争に発展した。オスマン帝国はエジプトの協力をえて、キオス島の虐殺事件など徹底的な力による弾圧をおこなった。これに対してロシア・イギリス・フランスはギリシアの独立運動支援にまわり、カニングの仲介によって同盟を結成した。

ギリシア独立戦争

ナショナリズムの精神は、当時オスマン帝国の支配下にあったギリシアにおいても高揚した。19世紀初め、イプシランティ A.Ypsilanti (1792〜1828)率いるヘタイリア Hetairia が結成され、ギリシアの独立をめざしたが、1821年になって武力闘争に発展した。オスマン帝国はエジプトの協力をえて、キオス(シオ)島の残虐事件など徹底的な力による弾圧をおこなった。これに対してロシア・イギリス・フランスはギリシアの独立運動支援にまわり、G.カニングの仲介によって同盟を結成した。1827年の英・仏・露の三国艦隊によるナヴァリノの海戦 Navarino が勝利に終わったことは、ギリシアの独立を確実なものとした。

ウィーン体制下のヨーロッパ地図
ウィーン体制下のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

また西欧諸国では、知識人を中心にギリシアは文化の故郷という意識があったので、イギリスの熱情詩人バイロン Byron (1788〜1824)のように義勇軍として参戦するものも現れた。フランスのロマン派画家ドラクロワ Delacroix (1798〜1863)は「キオス島の虐殺」を描いて世論の独立支持に貢献した。一方、オスマン帝国は同じ複合民族国家であるオーストリアのメッテルニヒに支援を期待したが、えられなかった。

ギリシア独立戦争
キオス島の虐殺(ウジェーヌ・ドラクロワ画/ルーブル美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

「キオス島の虐殺」:キオス島でのオスマン軍(ムハンマド=アリーの派遣したエジプト軍)による虐殺のさまを描いたもので、「ヨーロッパの故郷」ギリシアの奪還に関して世論に影響を与えた。ドラクロワ画(1824/パリ・ルーヴル美術館蔵)。

こうした情勢のもと1829年ロシアとオスマン帝国間でアドリアノープル条約 Adrianople が締結され、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡の通航権の確保や領土の割譲をオスマン帝国に強制しながら、ギリシアの独立が両国間で認められた。翌30年ロンドン会議 London が開催されて国際的認証がなされ、1832年、バイエルンの王子オットーが国王としてむかえられ、ギリシア王国が成立した。しかし領土はペロポネソス半島に限定されたため、ギリシア人のあいだには不満が残った。

ロシアがカフカス南部やボスフォラス・ダーダネルス両海峡の自由通航権を獲得し、三国同盟条約(1827)やロンドン議定書(1829)に同意するというかたちで、ギリシアの独立を承認させた。

この時代の君主:オスマン帝国:第30代皇帝マフムト2世(位1808〜1839), オスマン帝国の属州エジプト:ムハンマド=アリー朝初代君主ムハンマド=アリー, ロシア:ロマノフ朝第10代アレクサンドル1世・第11代ニコライ1世

参考

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