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カール大帝(シャルルマーニュ)
カール大帝の西ローマ帝国地図 ©世界の歴史まっぷ

カール大帝(シャルルマーニュ)

カール大帝は積極的な対外遠征を行い、8世紀末までに西ヨーロッパの主要部分を統一することに成功し、フランク王国は東ローマ帝国と肩を並べる強国となった。この動きを見て、ローマ教会は800年、カール大帝の西ローマ帝国戴冠を授与し、かたちのうえで西ローマ帝国が復活した(カールの戴冠)。

カール大帝(シャルルマーニュ)

ヨーロッパ世界の形成と発展
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

小ピピンの死後(768年)、その子カールとカールマンの兄弟が王国を2分しておさめたが、771年のカールマンの死とともにカール大帝(位768〜814)が全フランク王国を統一支配することになった。カール大帝は積極的な対外遠征を行い、領土の拡大をはかった。まず南方のイタリアでは、ランゴバルド人が再び勢力を強め教皇を圧迫していたためこれを討ち、ランゴバルド王国を滅ぼした(774)。そして、イタリアの北半を併合するとともに、中部イタリアを教皇領として確認した。また北方では772年以降サクソン人(ザクセン人)に対して遠征を繰り返し、804年に征服した。東方ではドナウ川上流で土豪化したバイエルン公国を攻め、788年これを併合するとともに、さらに791年以降ドナウ川中流のスラヴ人やアジア系アヴァール人とも戦い、その地を併合していった。

アヴァール人は中央アジアのモンゴル系遊牧民で、中国の柔然との同族説もある。6世紀に中央ヨーロッパに移動し、ビザンツ帝国やフランク王国に侵入をくりかえした。

西方では778年イベリア半島のイスラーム勢力を攻めてエブロ川以北の地を占領し、のちスペイン辺境伯領を設置した(795)。こうして、8世紀末までに西ヨーロッパの主要部分を統一することに成功し、フランク王国は東ローマ帝国と肩を並べる強国となった。

この動きを見て、ローマ教会はカール大帝の西ローマ帝国戴冠を計画した。カール大帝は東ローマ帝国との不和を恐れたものの、広大な領土の統治のためにローマ皇帝の権威も必要であった。レオ3世(ローマ教皇)(795〜816)は反対派の攻撃をカール大帝の保護で乗り切ると、800年、ローマのサン・ピエトロ大聖堂において、カールにローマ皇帝の冠を授与した。ここに、かたちのうえで西ローマ帝国が復活したのである(カールの戴冠)。

カール大帝の西ローマ帝国地図
カール大帝の西ローマ帝国地図 ©世界の歴史まっぷ
カール大帝
カール大帝 (アルブレヒト・デューラー画/Germanisches Nationalmuseum蔵) ©Public Domain

まもなく東ローマ帝国との関係が悪化すると、カール大帝はイスラム帝国アッバース朝第5代ハールーン=アッラシードと提携して対抗し、やがて東ローマ帝国もカール大帝の西ローマ帝国皇帝位を承認することになった(812)。

国内の統治にあたり、カール大帝は人口数万人ごとに管区を設定し、国王直属の(グラーフ)をおいて軍政両面を担当させた。また、伯職については、その世襲を禁じて土着化を防止するとともに、臨時に巡察使を派遣してこれを監視させ、中央集権体制の確立に努めた。しかし、征服されたとはいえ、ザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な部族法が残されており、カールのたびたびの勅令にもかかわらず王国(帝国)の分権的傾向を完全に抑えることはできなかった。そのことを示すもののひとつに首都の不在がある。アーヘン、インゲルハイムなどに宮廷が築かれたが、カールは1カ所に落ち着くことはなく絶えず領内を移動して、伯との個人的結びつきを確認することが必要であった。それだけ、社会の封建化が進みつつあったのである。
カールはこのほか道路を改修して交易を保護したり、銀を通貨とする貨幣制度を定めたりしたが、特に注目されるのは文教政策である。聖職者を養成するために、各地の修道院や教会に付属学校の設置を命じ、さらに聖職者の一般的教養を高めるため、諸国から高名な学者を招いてラテン語と古典文化の研究に当たらせ、カロリング・ルネサンスを現出させた。

ブリタニアからはアルクイン(735〜804)イタリアからはピサのペトルス(?〜799)やパウルス・ディアコヌス(720頃〜797頃)、スペインからはテオドゥルフ(793〜835)などがつぎつぎにフランクの宮廷を訪れ、古典文化の興隆がみられたため、こう呼ばれる。

このように、カールの西ローマ帝国は、単純な古代帝国の復活ではなかった。むしろそれは、古代以来の古典文化、キリスト教(ローマ・カトリック)、ゲルマン的要素の3者が融合した全く新しい世界、すなわち西ヨーロッパ世界の誕生を告げるものであった。

ピレンヌ・テーゼ マホメットとシャルルマーニュ

ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌ(1862〜1935)は、中世ヨーロッパ世界の成立を、8世紀のイスラーム勢力による地中海制覇の結果ととらえ、古代地中海文化と中世文化との断絶を強調する命題(テーゼ)を提起した。
このピレンヌ・テーゼは学会に大きな衝撃を与え賛否両論が巻き起こったが、いまだその正否についての決着はみていない。
「イスラームによる地中海の閉鎖とカロリング家の登場との同時性には、単なる偶然の戯れ以上のものを見ないわけにはいかない。事態の全貌を観察するならば、前者と後者の間には明瞭に結果に対する原因の関係が認められる。・・・・・・イスラームなくしては、疑いもなくフランク帝国は存在しなかったであろうし、マホメットなくしては、シャルルマーニュは考えることはできないであろう。」

古代から中世へ―ピレンヌ学説とその検討 (1975年) (歴史学叢書)より

カール大帝の人となり

伝記作者アインハルト(エギンハルドゥス)の『カール大帝伝』によれば、大帝は小ぶとりの大きな身体(身長195㎝)をしており、馬術・狩猟・水泳などに長けていた。特に水泳は得意で、アーヘンの宮廷に温水プールを設け従臣たちと泳いだが、帝の右にでるものはなかったという。服装も簡素で、儀式のときをのぞき、ローマ風の正装は好まなかった。また文字の読み書きはできなかったが、文化人を大いに保護し、古典研究を奨励した。

参考

launch 詳説世界史研究

参考

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