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ウラービー運動と英仏の植民地支配

ロンドン四国条約以降、外国投資家はエジプトに殺到し鉄道・運河・工場など建設。これらの投資はエジプトの債務となり、1875年スエズ運河株をイギリスに売却、76年国家財政破綻。外国人財務監督官を受入、歳入の大部分を債務返済にあてた。

ウラービー運動と英仏の植民地支配

エジプト

ロンドン四国条約による市場開放以降、外国資本が進出し、西欧に対する経済的従属が強まった。なかでも1858年にフランス人レセップス Lesseps (1805〜94)によって開始されたスエズ運河建設事業は、資本の44%をエジプト王(1867年以降はへディーヴ khediv =副王の称号を用いる)がひきうけたものの、残りはヨーロッパで公募された。また、南北戦争の勃発(1861)によってアメリカ綿花にかわりエジプト綿花の需要が急速に高まり、外国投資家はエジプトに殺到し、これによって鉄道・運河・工場などの建設が大々的に進められた。

スエズ運河
スエズ運河開通直後の風景(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

しかしこれらの投資は、エジプト側の対外債務として残った。このため1875年にはスエズ運河株をイギリスに売却したが、76年には外債によって国家財政は破綻し、外国人財務監督官をうけいれ、翌年から歳入の大部分が債務返済にあてられることとなった。外債の返済のため、農民からの徴税は強行され、農民の離散や隷農化が進むとともに、ザワード dhawat と呼ばれる大地主層が形成された。

ウラービー運動

へディーヴ(副王)と特権支配層・外国人の財政支配に対するエジプト人の不満は、1881〜82年のウラービー (Ahmad Urabi, オラービーとも呼ばれる, 1841〜1911) 大佐を指導者とする民族運動として表れた。すでにエジプトでは、1871年以降アフガーニー al-Afghani (1838/39〜97)やムハンマド=アブドゥフ Muhammad Abduh (1849〜1905)がイスラームの危機と改革の必要を広く訴えていたが、79年には国民党が結成され、外国支配からのエジプトの独立、憲法と議会にもとづく責任内閣制のプログラムを示した。このような運動の進展は、英・仏などとの緊張を高め、1881年9月、ウラービーが軍を率いて宮殿を包囲し、立憲制の要求をつきつけた。

ウラービー
ウラービー(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

農民出身の将校、村落の有力者、改革派ウラマー(知識人)、商人や官吏など広範な国民の支持のもとに、翌82年2月、議会は、ウラービーを軍務大臣とする内閣と新憲法を成立させた。議会による予算管理を恐れた外国人債権者と列強は、この運動に武力介入し、9月にエジプトに上陸したイギリス軍にウラービー軍は敗北し、エジプトはイギリスの軍事占領下におかれることとなった。ウラービー運動は軍事介入の前に挫折を余儀なくされたが、運動のなかで用いられた「エジプト人のエジプト」というスローガンは、以後のエジプト民族運動の原点となった。

イギリスの軍事占領下

軍事占領下でエジプト統治にあたったイギリス総領事クローマー Cromer (任1883〜1907)のもとで、ヨーロッパの工業製品との競争に敗れた土着産業は解体し、エジプト経済は、輸出用の綿作に単一化されていった。またエジプトはイギリスによるアフリカ分割の基地となった。

マグリブ

マグリブ(北アフリカ)では、チュニジア・アルジェリア・リビアが16世紀にオスマン帝国の支配下に入り、やがて土着化したトルコ系軍人が実権を握るようになっていたが、19世紀以降フランスがここに進出した。

アルジェリア

アルジェリアでは、1830年のアルジェリア占領によって、太守たいしゅ(デイ)の支配は崩壊し、植民地化が進んだ。これに対し、アブド=アルカーディル Abd al-Qadir (1808〜83)は、1832年有力部族の推戴によってムスリム信徒の司令官に選ばれると、侵略者に対する聖戦(ジハード)を呼びかけた。37年までに、アルジェリアの3分の2を勢力下におさめたが、39年以降フランスは徹底的な軍事鎮圧を開始し、47年についに降伏、植民地支配への従属が決定的となった。

チュニジア

チュニジアでは、19世紀中葉からオスマン帝国やエジプトにならい上からの近代化がおこなわれていたが、フランスは1881年に、チュニスの軍事占領をきっかけにして、チュニジアを保護国とした。

モロッコ

モロッコは、アラウィー朝 Alawi (1631〜)のもとでオスマン帝国やヨーロッパ諸国からの独立を保ったが、19世紀半ばから不平等条約を結ばされ、1912年のフェス条約によってフランス保護国となった。

リビア

英・仏の分割の狭間となったリビアは、1912年にイタリアの保護国となり、北アフリカ全域の分割が確定した。

マフディー運動

ムハンマド=アリー朝の支配下におかれたスーダンでは、1881年ムハンマド=アフマド Muhammad Ahmad(1844〜85)がマフディー(救世主)を宣言し、重税に苦しむ貧農や牧畜民、あるいは地元商人などを組織して、エジプトの支配に抵抗するジハードをくりひろげた。エジプトを占領下におさめたイギリスは、85年にゴードン将軍が率いる軍を派遣したが、マフディー軍はこれをハルトゥームに全滅させ、太平天国鎮圧の「英雄」の死はヨーロッパを震撼させた。マフディーの死後もその権威による教団国家を維持したが、フランスのアフリカ横断政策を恐れるイギリスは、再度制圧に乗りだし、98年マフディー軍を破り、スーダンを統治下におさめた。

ムハンマド=アフマド
ムハンマド=アフマド(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

西アジアの動向 エジプト

エジプト
1798ナポレオンのエジプト侵入(〜99)
1805ワッハーブ派、メディナ占領
1805ムハンマド=アリー、エジプトの実権を握る
1818ムハンマド=アリー、ワッハーブ朝を滅ぼす
1822ムハンマド=アリー、東スーダンを征服
1831第1次エジプト=トルコ戦争(〜33)
1839第2次エジプト=トルコ戦争(〜40)
1840ロンドン四国条約:ムハンマド=アリー、シリア放棄
1869スエズ運河完成
1875エジプト、スエズ運河会社の株式をイギリスへ売却
1876イギリス・フランス両国によるエジプトの財政管理
1881ウラービー運動(〜82):イギリス・フランス支配に抵抗するも失敗
マフディー運動(〜98):スーダンがマフディー国家樹立
1882イギリス軍、エジプトを占領、保護化
参考:山川 詳説世界史図録

オスマン帝国支配の動揺と西アジア流れ図

54.オスマン帝国支配の動揺と西アジア
54.オスマン帝国支配の動揺と西アジア流れ図 ©世界の歴史まっぷ

参考

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