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ウィーン会議

フランス革命とナポレオンによって生じた混乱に終止符をうち、新しい国際秩序を確立するため、1814年9月〜15年6月にかけてウィーン会議が開催された。フランスのタレーランの提唱した正義主義(フランス革命以前の領土や主権を正当なものとし、それを復帰させる)が採用され、自由主義・国民主義に対する配慮はなされず、保守反動の国際体制が生まれた。

ウィーン会議

ウィーン会議
ウィーン会議(1814〜15)の風刺画 (元画像:fineartamerica

メッテルニヒ(オーストリア外相・1821〜宰相)を議長に開催されたウィーン会議で、オーストリア皇帝がヴェネツィア・ロンバルディアを獲得しようとするなど有力国が領土再編をめぐり権謀術数をつくしているさまが描かれている。「会議は踊る、されど進まず」といわれたこの会議は、タレーラン(フランス外相)の提唱した正統主義を原理に、大国間の利害一致・勢力均衡の観点から妥協が成立し、ウィーン議定書が結ばれた。 参考: 山川 詳説世界史図録

ナポレオン1世がエルバ島に流刑にされたあと、1814年4月第1次パリ平和条約が締結されたが、フランス革命とナポレオンによって生じた混乱に終止符をうち、新しい国際秩序を確立するために、1814年9月から15年6月にかけてウィーン会議 Wiener Kongrcss が開催された。この会議にはイギリスからはカッスルレー Castlereagh (1769〜1822)、フランスはタレーラン Talleyrand (1754〜1838)、ロシアからアレクサンドル1世 Aleksandr I (位1801〜25)、プロイセンからはハルデンベルク Hardenberg (1750〜1822)らが参加したが、司会をおこなったのはオーストリアの外相(のちの宰相)であるメッテルニヒ Metternich (1773〜1859)であった。各国の思惑と利害の対立は深刻であったので、「会議は踊る、されど進まず」という状態が続いた。

「会議は踊る、されど進まず」:会議は連日華麗な舞踏会や催し物が開かれ、全体会議は1回も開催されなかった。

タレーランの提唱した正義主義 legitimism は各国の君主に歓迎されて基本原則として採用され、ヨーロッパ各国の勢力均衡 balance of power がはかられた。ナポレオンのエルバ島脱出の知らせのあと、最終議定書(ウィーン議定書またはウィーン条約)がワーテルローの戦いの直前になって成立した。

正義主義:フランス革命以前の領土や主権を正当なものとし、それを復帰させる原則。
ウィーン体制下のヨーロッパ地図
ウィーン体制下のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

議定書では、

  1. フランス・スペイン・ナポリではブルボン家が復位する。
  2. ローマ教皇領が復活し、サルデーニャはサヴォイア・ジェノヴァを獲得する。
  3. ポーランドの大部分にはロシア皇帝を王とするポーランド立憲王国が成立する。
  4. プロイセンはザクセンの一部とライン左岸を獲得する。
  5. 神聖ローマ帝国は復活させず、35の君主国と4つの自由市からなるドイツ連邦を構成する。
  6. イギリスはオランダからセイロン(スリランカ)とケープ植民地を、そして戦時中占領した地中海のマルタ島を獲得する。
  7. オランダは海外の植民地を喪失した代償に南ネーデルラント(ベルギー)を獲得する。
  8. オーストリアは南ネーデルラントを喪失した代償として北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを獲得する。
  9. スウェーデンはフィンランドをロシアに、西ポンメルンをプロイデンに割譲するかわりにノルウェーを獲得する。
  10. スイスを永世中立国とする。

ということが決められた。この決定では自由主義・国民主義に対する配慮はなされず、メッテルニヒの方針は貫徹され、保守反動の国際体制が生まれたウィーン体制)。

この結果、オランダは立憲王国としてネーデルラント王国と称した。

この国際体制の安定のために結成されたのが、ロシア皇帝アレクサンドル1世が提唱した神聖同盟 Holy Alliance であった。1815年9月に成立したこの同盟は、キリスト教の正義と博愛の精神にもとづいて平和維持のために連帯すべきとするもので、「けだかい神秘主義とナンセンスの紙切れ」と会議代表カッスルレーが批判したイギリス、イスラーム教国のオスマン帝国、新教国と同盟することを拒否したローマ教皇をのぞいて、ヨーロッパ各国君主が参加した。神聖同盟により実質的に反動体制維持の機能をもっていたのが、1815年11月に成立した四国同盟 Quadruple Alliance であった。ナポレオン打倒の中心となったイギリス・ロシア・オーストリア・プロイデンの四大国から構成され、革命の防止、紛争の終止をはかった。1818年11月のエクス=ラ=シャペル会議でフランスの参加が認められて五国同盟 Quintuple Allance となったが、ヨーロッパ各地での自由主義・国民主義運動ににらみをきかせ、その抑圧をはかった。しかし、イギリスだけは1822年のヴェロナ会議 Verona 以降この五国同盟から実質的に脱退し、メッテルニヒとも対立しながら自由主義外交の方針に転換した。

ウィーン会議 おもな各国代表

オーストリア帝国君主皇帝 フランツ2世(神聖ローマ皇帝)
全権外相 クレメンス・フォン・メッテルニヒ
ロシア帝国君主皇帝 アレクサンドル1世
首席全権国務長官 カール・ロベルト・ネッセルローデ
プロイセン王国君主国王 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)
首席全権宰相 カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク
大ブリテン=アイルランド連合王国首席全権外相 ロバート・ステュアート(カスルリー子爵)
首席全権代理駐仏公使 アーサー・ウェルズリー(初代ウェリントン公爵)
首席全権代理駐蘭公使 
フランス王国首席全権首相 シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
ローマ教皇領首席全権国務長官 エルコール・コンサルヴィ
参考:Wikipedia

参考

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