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インド社会の変化

産業革命の結果安価な機械織り綿布が大量にインドに逆流し、インドの都市の綿工業は破壊され、都市には失業者があふれた。インドは手織りの上質綿布の輸出から、綿花・アヘン・茶など原料品の輸出国となり、インドの伝統的な村落社会はしだいにくずされた。

インド社会の変化

イギリスのこのような積極策にでたのは、単に領土を獲得し地税を徴収するだけのためではなかった。本国における産業革命の進行にともない、原料生産地および商品市場としての植民地インドの重要性が高まったからである。イギリス本国の新興産業資本家や特権をもたない商人たちは、早くからイギリス東インド会社のアジア貿易独占を批判し自由貿易を求めてきたが、イギリス政府はこうした要求のもとに1813年に会社のインド貿易独占を廃止し、33年には会社の商業活動を全面的に停止させた。ここにいたってインドはイギリス産業資本の自由な市場として解放され、会社はインド統治の機関にすぎなくなった。また同じ1833年のインド統治法によってベンガル総督はインド総督と改称され、全インドの植民地統治機構が、カルカッタ駐在の総督と、そのもとにおかれたインド政庁に集中することになった。

イギリス領の拡大地図
イギリス領の拡大地図 ©世界の歴史まっぷ

このようなイギリスの植民地支配は、インドの社会に大きな変化をもたらした。手織りの上質綿布は18世紀にいたるまでインドのもっとも重要な輸出品であったが、産業革命の結果ランカシャー産の安価な機械織り綿布が大量にインドに逆流することになった。このためインドの都市の綿工業は破壊され、都市には失業者があふれた。ベンガル湾に面したダッカは綿織物業のさかんな都市として知られたが、このとき人口は15万からいっきょに2万になったという。こうしてインドは綿花・アヘン・インディゴ(藍)・ジュート・茶など原料品の輸出国となり、それらの生産者たちは不安定な国際市場に結びつけられた。またイギリスは、ベンガル地方などに新しい地税制度を導入し、納税義務を負う地主(ザミーンダール)に土地所有権を与えた。このザミーンダーリー制度 Zamindari によって、農民は土地に対して持っていた占有権を失って完全な小作人となり、地主の収奪のもとで貧困生活を強いられることになった。一方、南インドでは耕作者(ライーヤト)に土地保有権を認め、彼らから直接地税を徴収するライーヤトワーリー制 Raiyatwari が施行され、北インドの中部・西部では村落単位の徴税法も採用されている。こうした土地政策に、商品経済の浸透、農民の都市への移住が加わって、インドの伝統的な村落社会はしだいにくずされた。

イギリスはさらに、資源開発、道路、鉄道・灌漑施設などの建設、通信網の整備などを進め、また新たな司法制度をもちこんだり、インド人官吏登用の必要から英語を用いるイギリス式の高等教育を採用したりした。これらの政策は植民地支配の強化を目的としたものであったが、結果的にはインド社会の「近代化」を推進する役割を果たした。しかし、こうした政策が伝統の破壊をともないながら強引に進められたため、インド人の間に反感と不満をつのらせることになった。特に保守的なヒンドゥー教徒・イスラーム教徒のキリスト教に対する反感は大きかった。一方、ヨーロッパ思想の流入とともに、ヒンドゥー教の伝統をふまえつつこれを改革しようとする動きもみられるようになった。たとえば、ラーム=モーハン=ローイ Ram Mohan Roy (1772〜1833)はカースト制度を批判するとともに女性の地位改善に努め、ダヤーナンダ=サラスヴィティー Dayananda Sarasvati (1824〜83)は宗教的に純粋なヴェーダの社会への復帰を説き、ラーマクリシュナ Ramakrishna (1836〜86)とその弟子のヴィヴェーカーナンダ Vivekananda (1863〜1902)はあらゆる宗教は同一の真理をめざすものであると主張した。イスラーム教においても、教育をつうじた近代化をめざしたサイイド=アフマド=ハーン Sayyid Ahmad Khan (1817〜97)がでた。1913年にアジア人として最初のノーベル文学賞を受賞したタゴール Tagore (1861〜1941)は、インド古来の思想とヨーロッパ近代思想とを見事に融合させた文豪として知られる。

参考

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