インド民族運動の展開 インドの宗教分布とベンガル分割地図
インドの宗教分布とベンガル分割地図 ©世界の歴史まっぷ

インド民族運動の展開

1905年インド総督カーゾンは、民族意識の進んだベンガル州をヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の多住地域に分割し、宗教的対立を利用して民族運動の波をそらすことを目的としたベンガル分割法を強行し、インド人を激怒させた。

インド民族運動の展開

イギリスの植民地支配のもとで、インドの富は海外に流出し、土着経済の発達は阻害されたが、それにもかかわらず19世紀後半になると綿工業を中心に民族資本の成長がみられるようになった。同じころイギリスの資本による近代工業もおこり、インド人労働者の数も増して、彼らの間に待遇改善を求める動きもでている。農村では地主への土地集中が進んで農民は困窮の度を加え天候不順な年には飢饉が発生して多数の死者をだした。農民保護のための小作法が19世紀後半にくりかえし制定されたが効果は少なく、農民暴動も各地でおこっている。他方、都市では、近代教育をうけ英語で自由に読み書きできる知識人の数が増えた。彼らは弁護士・ジャーナリスト・教育家・官吏・事業化として活躍し、はじめ親英的であったが、やがて民族意識にめざめ、連帯を強める動きもみられるようになった。

イギリスは彼らを懐柔する必要に迫られ、1885年ボンベイでインド人による最初の国民会議 National Congress を開催させた。この会議は、これ以後毎年、開催場所を変えて開かれた。会議への参加者は、はじめ大部分が穏健な知識人 であり、イギリスとの協調に重きをおいたが、しだいに民族意識を強め、植民地支配が露骨化するとともに反英の立場を公然と表明するにいたった。会議はまた政党としての組織を整えた。インドの民族運動はこうして生まれた国民会議派が中心となって展開することになる。

参政権要求運動を指導したバネルジー Banerjea (1848〜1925)、植民地インドからの富の流出がインド貧困の原因であると説いたナオロジー Naoroji (1825〜1917)などが、初期の代表者である。

1905年、インド総督カーゾン Curzon (任1899〜1905)はベンガル分割法を施行した。この法令は、民族意識のもっとも進んだベンガル州をヒンドゥー教徒多住地域とイスラーム教徒(ムスリム)多住地域に分割し、宗教的対立を利用して民族運動の波をそらすことを目的としたもので、いわゆる分割統治政策の一環であった。分割の強行はインド人を激怒させ、過激派のティラク Tilak (1856〜1920)に率いられた会議派は、1906年のカルカッタ大会で4綱領を採択してイギリスにたちむかった。

すなわちボイコット(英貨排斥)・スワデーシ Swadeshi (国産品愛用)・スワラージ Swaraj (自治獲得)・民族教育の4綱領であり、成長期にあったインド人資本家たちもこのスローガンを支持した。しかし、翌07年に会議派は穏健派と過激派の対立から分裂し、またイギリスによる弾圧と懐柔のたくみな使い分けも効果をあげ、運動は急速に沈静化した。

ヒンドゥー教徒を中心とする会議派の運動に、少数派のムスリムは不安を抱いた。イギリスは彼らの焦燥感しょうそうかんにつけこんで、1906年に全インド=ムスリム連盟 Muslim League を組織させ、親英・反会議派の立場をとらせることに成功した。そして1909年のインド統治法ではムスリムに有利な宗教別分離選挙制度を採用するなど、たくみな分割統治策を進めた。

なお、ベンガル分割法は、1911年イギリス国王(インド皇帝)ジョージ5世(イギリス)のインド訪問の際にだされた宣言で廃止された。またこれと同時に、民族運動のさかんなカルカッタからデリーに首都を移すことが発表された。

参考

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