イクター制の成立と展開

ウマイヤ朝やアッバース朝では官僚や軍人に現金で俸給(アター)が支払われていたが、9世紀半ばからカリフ権力が衰えて国庫収入が減少すると、現金での俸給の支払いは難しくなった。10世紀半ばにバグダードに入城したブワイフ朝は、アターにかえてイクター(徴税権)を授与し国家体制を整えることにした。

参考 詳説世界史図録

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イクター制の成立と展開

イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

アッバース朝カリフの権力が安定し、官僚性が整っている間は、軍隊と官僚に現金俸給を行なうアター体制を維持することができた。しかし9世紀半ば以後、マムルーク軍人の勢力が台頭し、地方に独立の王朝が樹立されると、カリフ権力は衰え、王朝が支配できる地域はイラク地方だけに限られた。このため国庫収入は次第に減少し、ブワイフ朝がバグダードに入城し立ときには、国庫は極度に欠乏した状態にあった。

これをみたブワイフ朝のムイッズ・ウッダウラは、配下の騎士に分与地(イクター)を指定し、彼らに徴税の権限をゆだねる政策をとった。これをイクター制という。イクター保有者(ムクター)となった騎士たちは、代理人を派遣して取り分の徴収をおこない、戦時にはその収入を用いて装備を整えることが義務付けられた。現金俸給を支払うアター体制からイクター制への転換は、イスラーム国家や社会にさまざまな変革をもたらすことになった。

新体制のもとでは、騎士たちはイクター保有の見返りに君主に対して軍事奉仕の義務を負い、農民や地方の都市民は、従来の徴税官にかわって、イクター保有者による直接支配を受けるようになったからである。
ブワイフ朝時代のイラクでは、農村の実情を無視して不正な徴税がおこなわれたために、農民の疲弊は著しかった。しかしセルジューク朝になると、イクター制が施行される範囲はイラクからイラン・シリアへと拡大し、また政府によるイクター保有者の監督も厳格におこなわれるようになった。宰相ニザームルムルクは、『統治の書』のなかで、2〜3年ごとにイクターを変更し、必要があれば、中央から調査官を派遣すべきであると述べている。これは、イクター保有者による不正を未然に防止し、彼らが地方に独立するのを防ぐことが目的であった。

セルジューク朝のイクター制は、サラディンによってエジプトに導入された。アイユーブ朝時代のイクター保有者は、ブワイフ朝やセルジューク朝の場合と同様に、一族や郎党を代理人として現地に派遣し、取り分の徴収を行なった。十字軍との戦闘に参加したのは、このようなイクター収入によって装備を整えたクルド人やトルコ人の騎士たちだったのである。

マムルーク朝もアイユーブ朝のイクター制をそのまま継承した。しかしこの時代には、マムルーク騎士の位に応じてイクターの規模と軍事奉仕の義務が厳密に定められるようになった。マムルークたちはイクター内の運河や水路を整備し、主食となる小麦のほかに、イランからイラクをへてエジプトに導入された砂糖キビ栽培を熱心に奨励した。
カイロの近郊でみずから製糖工場を営むイクター保有者も少なくなく、エジプトの砂糖(スッカル)は、ヨーロッパむけのもっとも重要な輸出商品に数えられるようになった。砂糖を意味する英語のシュガーが、アラビア語のスッカルに由来しているのはそのためである。

砂糖

砂糖キビを原料とする砂糖生産は北インドに始まり、ササン朝末期にはイランに導入され、アッバース朝時代にイラク南部からさらにエジプトのデルタ地帯に広まった。12世紀ころには、砂糖キビ栽培はエジプト全土に拡大し、砂糖はヨーロパむけの重要な輸出商品に数えられるようになった。その後、イスラーム世界の製糖技術は、北アフリカをへてアメリカ大陸つに伝えられ、植民地を経営するヨーロッパ諸国は、奴隷労働を用いて大規模な砂糖キビ栽培をおこなった。

参考

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