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イギリス

イギリス
帝国主義時代のヨーロッパ諸国ーイギリス ©世界の歴史まっぷ

イギリス

19世紀後半のイギリスは自国産業の市場確保をめざし世界各地に進出。優勢な軍事力により現地政権を屈服させ自由貿易の論理にもとづき不平等な通商条約をおしつける、従属地域の拡大の仕方を「自由貿易の帝国主義」、あるいは「非公式の帝国」という。

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1878年の世界地図 イギリス
1878年の世界地図 ©世界の歴史まっぷ

帝国主義時代のヨーロッパ諸国 イギリス

 イギリス国内 イギリス国外
1871労働組合法制定1867カナダの自治領化
1875スエズ運河会社の株買収(ディズレーリ)
1877インド帝国成立
1881アイルランド土地法制定1878ベルリン会議
1882
エジプト占領
1884フェビアン協会結成
第3回選挙法改正
1884ベルリン=コンゴ会議(〜85)
→ アフリカ縦断政策 3C政策推進
1886アイルランド自治法案否決1890ローズ、ケープ植民地首相に就任(〜1903)
18948時間労働法制定1895ジョゼフ=チェンバレン植民地相に就任
1898ファショダ事件
1899南アフリカ戦争(〜1902)
1900労働代表委員会結成1901英領オーストラリア連邦成立
1905シン=フェイン党結成1902日英同盟締結
1906労働代表委員会、労働党と改称1904英仏協商締結
1907英露協商締結
ニュージーランド自治領に
1911議会法制定1910英領南アフリカ連邦成立

19世紀後半のイギリスは自国産業の市場確保をめざして、世界各地に進出していった。直接的に政治的支配をおこなうよりも、必要に応じて優勢な軍事力によって現地政権を屈服させ、自由貿易の論理にもとづき不平等な通商条約をおしつけた。このような従属地域の拡大の仕方を「自由貿易の帝国主義」、あるいは「非公式の帝国」という。たとえば、中国においては、アヘン戦争・アロー戦争をひきおこして貿易都市を増やし、関税自主権を奪い、また香港・九龍半島を獲得していった。日本・タイ・トルコ・ブラジルなどにも自由貿易の原則に立つ不平等条約をおしつけた。

他方、自由貿易を主張するコブデンらは国防費の削減を求め、クリミア戦争やアロー戦争への介入に反対し、植民地の縮小を主張した。植民地を領有することは余計な浪費とみなされた。そのため、白人移住者の多いカナダなどの植民地に対しては、現地の自治的な責任政府を通じて間接支配をおこなうようになり、1867年、カナダが最初の自治領となった。このような小英国主義の傾向にもかかわらずインド周域のパンジャーブ地方・シンド地方・ビルマ、アフリカの黄金海岸など広大な諸地域を直接支配下に併合し「公式の帝国」をきずいた。

1873年に始まる「大不況」のころからより積極的な対外進出を求める声が高まった。当時、イギリスの自由貿易はジレンマに陥っていた。イギリスの工業製品は後発の工業国家の保護貿易に直面して世界市場での競争力を失う一方、障壁のない国内には外国の製品があふれた。基幹産業である鉄鋼生産では、19世紀末までにアメリカ合衆国・ドイツに追い越された。アメリカ合衆国・アルゼンチン・カナダ・オーストリアからは安い農畜産品が大量に流入して、農業の衰退と地主階級の地位の低下も招いた。しかし、成長と拡大を続ける世界経済のなかで、イギリスは世界各地への投資からの利益や、海運・保険などのサービスからの収入により「世界の銀行」として他の列強に対する優位を保った。

また、イギリス国内の社会経済秩序を維持するには植民地支配は不可欠であるとも考えられた。保守党のディズレーリ首相は1875年にスエズ運河会社の株式を買収して運河の経営権を握った。そのスエズからインドへの道を確保するためにロシアの南下を警戒し、ロシア=トルコ戦争後のベルリン会議ではオスマン帝国の領土保全に成功した。つづく、自由党のグラッドストン内閣は帝国主義政策に批判的ではあったが、エジプトやスーダンでの民族主義勢力の反乱を武力で鎮圧せざるをえなかった。

南アフリカ戦争
Boer troops lining up in battle against the British during the South African War (1899–1902).(画像出典:IBritannica.com

もともと急進的自由主義者として都市の社会政策に実績があったジョゼフ=チェンバレン Joseph Chamberlain (1836〜1914)は、国内の社会問題の解決には植民地が必要であるとの立場から積極的に帝国主義政策を推進し、南アフリカ戦争をおこした。

地主階級の影響力は低下したが、ロンドンの大富豪はむしろ地主への接近をはかり、彼らはジェントルマン資本家と呼ばれる。また、中産階級の間にもジェントルマンの意識が形成された。他方、大不況の影響で労働者の失業が増加し、社会的不平等が広まると、社会主義への関心があらためて高まった。1884年にウェッブ夫妻 Webb (夫1859〜1947, 妻1858〜1943)を中心に設立され、作家のバーナード=ショー Bernard Shaw (1856〜1950)も加盟したフェビアン協会は、実際的・漸進的な方法によって社会改良をめざす団体であった。フェビアン協会のほか、マルクス主義団体である社会民主連盟、労働者出身のケア=ハーディ Keir Hardie (1856〜1915)の設立した独立労働党、それに労働組合が合流して、1900年に労働代表委員会が結成され、06年には社会民主主義政党である労働党となった。1906年から第一次世界大戦まで政権を担った自由党内閣は、労働党の協力をえて労働争議法・養老年金法などの社会政策をつぎつぎに実行し、11年にはロイド=ジョージ蔵相 Lloyd George (1863〜1945)のもとで健康保険と失業保険を内容とする国民保険法を制定した。増大した社会政策費を調達し、ドイツに対抗する海軍拡張費をえるため、富裕層・地主の税負担を重くする「人民予算」が計画された。保守党が強い貴族院がこれに抵抗すると、政府は11年に議会法を成立させ、庶民院の法案決定権が貴族院に優先することを確定した。

アイルランドについては、グラッドストン自由党内閣はアイルランド人自作農を創出することで土地問題の解決をはかった。その後、パーネル Parnell (1846〜91)に率いられたアイルランド国民党は自治権獲得の運動を進め、内閣としても無視できない存在になっていた。グラッドストンは1886年に自治法案を提出したが、自由党の分裂を招き法案は廃案になった。グラッドストンは1893年にも自治法案を提出したが、貴族院の賛成がえられなかった。結局、1911年の議会改革をへて、ようやく1914年にアイルランド自治法が成立した。しかし、イギリス人プロテスタントの多い北アイルランド(アルスター)はこれに反対して、アイルランド独立を主張するシン=フェイン党 Sinn Fein と対立し、政府は第一次世界大戦の勃発を理由に自治法の実施を延期した。シン=フェイン党は反発して、対戦中の1916年武装蜂起をおこしたが鎮圧された(イースター蜂起)。他方、世紀末から「アイルランド文芸復興」運動がおこり、ケルト語やケルト文学の復興、ケルト神話や民間伝承の発掘がおこなわれ、民族のアイデンティティ確立に大いに寄与した。

参考

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