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イギリスの諸改革 チャーティスト
チャーティスト暴動(Cornelius Brown作/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

イギリスの諸改革

  • 1801 大ブリテン=アイルランド連合王国成立
  • 1807 奴隷貿易禁止
  • 1815 穀物法成立
  • 1828 審査法廃止
  • 1829 カトリック教徒解放法制定
  • 1832 第1回選挙法改正
  • 1833 奴隷制度廃止、一般工場法制定、東インド会社商業活動停止
  • 1837 ヴィクトリア女王即位
  • 1838 チャーティスト運動
  • 1846 穀物法廃止
  • 1849 航海法廃止

イギリスの諸改革

1713年のユトレヒト条約のなかで、イギリスはスペインからアシエント asciento (アメリカ大陸のスペイン植民地への奴隷供給独占契約権のこと)を獲得し、アメリカ大陸のスペイン植民地とアフリカを結ぶ奴隷貿易をほぼ独占した。この結果リヴァプール Liverpool などの町は奴隷貿易船の出入りで繁栄した。しかし、18世紀末からの革命思想によって人間の尊厳に対する人道主義的世論が高まり、1807年イギリスにおける奴隷貿易が禁止され、さらに33年植民地も含む奴隷解放令がグレー内閣(チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵) Charles Grey (1764〜1845 任1830〜34))のもとで成立し、38年有償方式による全奴隷の解放が実現した。

イギリスでは18世紀からクェーカー教徒によって奴隷反対運動が進められていた。デフォーやアダム=スミスなども反対を表明した。

1801年の大ブリテン=アイルランド連合王国 United Kingdom of Great Britain and Ireland の成立はカトリック教徒の多いアイルランド人の差別を生みだした。公職には国教徒しかつけないとする審査法 Test Act が実質的な信仰の自由を奪うことになったのである。不満をもつアイルランド人は1823年カトリック協会を成立して解放運動を進めたが、1828年の選挙でこの協会の指導者であったオコンネル O’Connel (1775〜1847)が議員に当選した。彼は審査法を楯にイギリス議会からその地位を拒否されたので、アイルランド人のみならず各方面からの批判がおきて、暴動の可能性さえでてきた。そのため、政府は1828年審査法を廃止して非国教徒にも公職への道を開き、翌29年カトリック教徒解放法 Catholic Emancipation Act を制定して、宗教的差別の廃止とアイルランド人の民族差別の解消をはかった。

オコンネルの合法主義に反発したのがオブライエン O’Brien (1805〜64)で、1840年代に入って「青年アイルランド党 Young Lrelanders」を結成して、議会外活動をおこなった。

イギリスの議会は、下院においては年収40ポンド以上の土地所有者が有権者とされていたので、地主的性格が強く、そのうえ記名選挙であったため公然とした買収がおこなわれ、地主によるいわば寡頭専制支配が続いていた。しかし、18世紀後半から始まる産業革命の進行によって社会的変動がもたらされ、とくに人口移動にともなう腐敗選挙区 retten borough の存在が大きな問題となった。

腐敗選挙区:有権者にくらべて議員定数が多い選挙区のこと。50名の有権者に対して2名の議員を出す選挙区が45ヶ所もあったといわれる。

政治的関心を高めていた産業資本家や労働者の不満は年々高まり、フランス七月革命の影響や経済不況に対する政府の無策も重なって、1830年の選挙で成立したホイッグ党のグレー内閣が法案成立に努力を重ね、1832年6月第1回選挙法改正 electoral reform が実現した。しかし、この改正では腐敗選挙区が廃止され、産業資本家は選挙権を獲得したが、同様に運動を担った労働者には選挙権は与えられなかったので、30年代後半になってオコナー O’Connor (1794〜1855)らを指導者とするチャーティスト運動 Chartist が展開された。また政党の再編が進み、トーリ党は地主や保守的資本家を支持基盤とする保守党へ、ホイッグ党は商工業ブルジョワを代表する自由党へと再編された。

1819年8月マンチェスターで開催された、議会改革と穀物法反対の集会を警官隊が襲撃し、11名の死者と多数の負傷者を出すピータールー事件 Peterloo Massacre がおきた。この事件の名称はマンチェスターのピーター聖堂前広場で発生したので、ナポレンを破ったワーテルローの戦いをもじってつけられた。
この選挙法改正が実現したあとも納税額で選挙権が制限される選挙制度であったため、地主出身の議員が大半であった。しかし、議会制民主主義の発展や産業資本家の議会進出に道を開いた点に歴史的意義がある。

1833年シャフツベリ伯 Shaftesbury (1801〜85)の努力によって女性労働や幼児労働を規制する一般工場法が制定され、さらに46年穀物法 Corn Law が廃止された。この穀物法は1815年に制定されたもので、ナポレオン没落後安価な穀物の流入からイギリスの地主の利益を守るために、輸入の結果一定以上に穀物価格が下落すると関税をかけて輸入を阻止するものであった。当時新興工業都市として発展していたマンチェスターでは、コブデン Cobden (1804〜65)やブライト Bright (1811〜89)らによって1839年「反穀物法同盟 Anti-Corn Law League」が結成され、自由貿易を旗印とする運動が展開され、しだいに全国的なものとなり、1846年ピール Peel (1788〜1850)保守党内閣は穀物法廃止を決断した。こうして東インド会社の貿易独占権廃止や穀物法廃止さらには航海法 Navigation Act (1651制定)も一部海運業者のみを利するという理由で1849年廃止され、イギリスは自由貿易体制を確立した。この政策はイギリス産業資本の利害を代表するものであり、またアジアに対しては、たとえば中国のように武力による鎖国体制打開(例:アヘン戦争)という力の政策となって現れた。

参考

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