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アヘン戦争(中国の近代の起点)
熱河離宮にて乾隆帝とイギリス使節・マカートニー(ジェームズ・ギルレイ画/ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

アヘン戦争(中国の近代の起点)

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アヘン戦争(中国の近代の起点)

19世紀、産業革命を達成したイギリスをはじめとする欧米諸国が、強大な経済力と軍事力を武器に、中国への積極的な経済進出と侵略を開始した。アヘン戦争を契機とする欧米列強の中国進出は、政治・経済・文化など、あらゆる面で伝統的中国社会に厳しい衝撃と動揺を与えた。これを一般にウェスタン=インパクト(西洋の衝撃)と呼んでいる。

アヘン戦争(中国の近代の起点)

19世紀に入り、清朝が衰退にむかっていったその時期に、産業革命を達成したイギリスをはじめとする欧米諸国が、その強大な経済力と軍事力を武器に、中国への積極的な経済進出と侵略を開始した。こうした欧米列強と清朝中国との最初の武力衝突がアヘン戦争(1840〜42)であった。この戦争でイギリスに惨敗した中国は、以後欧米列強の厳しい経済進出と侵略にさらされ、しだいに半植民地化の道をたどることになった。また、この敗戦と欧米近代文化の流入は、それまでの伝統的な中華思想、すなわち中国中心・中国文化至上の世界観を大きくゆるがしていった。このように、アヘン戦争を契機とする欧米列強の中国進出は、政治・経済・文化など、あらゆる面で伝統的中国社会に厳しい衝撃と動揺を与えた。これを一般にウェスタン=インパクト the western impact (西洋の衝撃)と呼んでいる。その後の中国は、半植民地の進行という困難な情勢のなかで、外圧への抵抗をつうじて、伝統的社会からの脱皮を模索し、実現していかなければならなかった。その意味で、アヘン戦争は中国の近代の起点として認識されるものである。

18世紀になると、イギリスはポルトガル・オランダなどを圧倒して中国貿易を独占していたが、清朝側は1757年の乾隆帝の決定により、海外貿易を広州1港に限定したうえ、中国との取り引きは公行こうこう(コホン)と呼ばれる清朝指定の少数の特許商人(およそ10行ほど)との間でのみ許可するという、厳しい制限貿易をおこなっていた。

このため、これを不満とするイギリスは、1793年にマカートニー Macartney (1737〜1806)を、1816年にはアマースト Amherst (初代アマースト伯爵 1773〜1857)を派遣して広州以外の港の開放など、自由貿易を要求した。しかし海外貿易をあくまで従属国からの朝貢という観念でとらえる清朝は、これをまったくうけつけなかった。こうした清朝の中華思想的立場は、イギリス使節との会見に際して生じた三跪九叩頭礼さんききゅうこうとうれい問題にもよく表れている。

アヘン戦争
熱河離宮にて乾隆帝とイギリス使節・マカートニー(ジェームズ・ギルレイ画/ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

三跪九叩頭礼 三跪九叩頭の礼とは、臣下が皇帝に対面するときの儀礼で、3度ひざまずき、そのたびに3回ずつ頭を床につけて拝礼するものである。マカートニーは乾隆帝との会見に際し、この三跪九叩頭礼を求められて拒否したが、乾隆帝はイギリス人は礼儀を知らぬ野蛮人であるからとして、特別に三跪九叩頭礼を免除して謁見を許した。アマーストは、嘉慶帝への三跪九叩頭礼を求められて拒否したが、今度はそのために会見を許されず、むなしく帰国するほかなかった。

イギリスの対清貿易は、本国でのの需要の増大にともなって、中国茶の輸入が急速に増大していた。産業革命で生産をのばした綿製品は中国では売れず、当初はイギリスが中国の茶を一方的に輸入し、代価を銀で支払うという完全な片貿易(イギリス側の入超)になっており、毎年イギリスから中国へ大量の銀の流出が続いていた。とくにアメリカの独立によって最大の植民地であった北米植民地を失ってからは、イギリスは中国への銀の支払いにいよいよ苦しむようになった。これを打開するためにイギリスは、18世紀末になるとインドでアヘン(阿片) を製造させ、本国の綿製品をインドに輸出してアヘンを購入し、インド産アヘンを中国に輸出して茶の代価にあてるという三角貿易を開始して事態の打開をはかった。これによりアヘン吸飲の悪習が中国社会に広まり、清朝政府のアヘン輸入・吸飲禁止令にもかかわらず、アヘンの密輸量は年をおって増加し、1830年代になると、ついに中国側がイギリスに対して入超に転じ、代価として茶だけでは足りず、逆に中国からイギリスへ大量の銀が流出するようになった 。こうした銀の大量流出は、必然的に銀価の高騰を招いたが、地丁銀制では納付すべき税額が銀価によって定められていたから、銀価の高騰は農民の負担を増大させ、その生活を圧迫していった。

アヘン輸入の増加と銀価の高騰

アヘンの輸入量は、1800年〜01年の約4600箱(1箱は約60Kg)から、1830〜31年には約2万箱、アヘン戦争前夜の1838〜39年には約4万箱に達した。このため1830年代末には、アヘンの代価として清朝の国家歳入の80%に相当する銀が国外に流出したという。こうした銀の大量流出は、中国国内の銀の流通量を減少させ、銀価の高騰をもたらした。乾隆時代には銀1両(1両は約37g)は銅銭700〜800文と交換されていたが、1830年には銀1両は銅銭1200文となり、1830年代末には最大で銅銭2000文に達した。地丁銀の税額は、銀何両というかたちで指定されるが、農民が実際に作物を打って手にするのは銅銭であったから、納税の際には、手持ちの銅銭を銀に換算して納付しなければならなかった。したがって銀価が倍に高騰するということは、農民にとっては税金が倍に増えるということに等しかったのである。

このようなアヘンの吸飲や密輸入の害を憂慮した道光帝どうこうてい(位1821〜50)は、アヘンの輸入・販売・吸飲の禁絶をめざし、1838年アヘン厳禁論を唱える林則徐りんそくじょ(1785〜1850)を欽差大臣に任命して、アヘン問題の解決にあたらせた。翌年、広州に着任した林則徐は、アヘン約2万箱を没収して焼却したうえ、イギリスに対し、アヘン貿易を停止しないかぎり一般貿易をも断絶するという強硬策にふみきった。しかし、イギリスにとっては、英領インド植民地において、アヘンからの収益金がその歳入の約6分の1を占め、インド農民にもイギリス製綿製品に対する購買力を与えるなど、アヘンはすでにイギリスの世界貿易体制の不可欠の一環となっており、また、1834年にはイギリス東インド会社の中国貿易独占権が廃止され、中国に対する貿易自由化の要求がいよいよ高まっていた矢先でもあった。そこでイギリスは、これを機会に武力によって自由貿易そのものを実現させようとして、1840年、中国に遠征軍を送ってアヘン戦争(1840〜42)をおこした。戦争は近代的兵器を有するイギリス軍の圧倒的な優勢に終始し、北上したイギリス艦隊が北京の外港である天津に迫ったため、道光帝は動揺して林則徐を罷免し、外交交渉による停戦をはかろうとした。この結果、1842年に南京条約が締結されて、アヘン戦争は終結した。この間、1841年に広州郊外の三元里さんげんりにおいて、イギリス兵の暴行に憤激した民衆が、平英団へいえいだんという武装自衛団を組織してイギリス軍を攻撃するという事件(三元里事件)がおきた。これは中国民衆の民族主義的な意識の芽ばえと、その後の民族主義的な排外・抵抗運動の出発点として注目される。

「不正義の戦争」 – イギリスにおける主戦論と反対論

アヘン戦争は、「自由貿易の実現」という大義名分を掲げておこされたが、その実、アヘンという麻薬販売による巨大な利益を失うまいとして始められたものであった。こうした史上にもまれな「不正義の戦争」に対してはイギリス国内でも強い反対論があり、後年の自由党党首グラッドストンなどは、議会で激しい反対演説をおこなっている。しかし、外相パーマストンをはじめとする主戦論者は、市場拡大を求める産業資本家や大商人の支持を背景に、開戦を断行したのである。パーマストンは、のちのアロー号事件の際には首相の地位にあり、この時も戦争反対を決議した下院を解散して開戦を断行している。このとき、下院で戦争反対を唱えた政治家には、穀物法廃止で有名な自由貿易論者コブデンがいた。

南京条約では、以下が約された。

  1. 香港島の割譲
  2. 上海・寧波・福州・厦門アモイ・広州の5港開港
  3. 公行の廃止による完全な自由貿易化、
  4. 賠償金2100万ドルの支払い

さらに翌1843年には虎門寨追加条約こもんさいついかじょうやくが結ばれた。これは、以下の内容とする不平等条約であった。

  1. 領事裁判権(治外法権)
  2. 協定関税(関税自主権の喪失)
  3. 最恵国待遇さいけいこくたいぐう片務的へんむてき最恵国待遇)

最恵国待遇

最恵国待遇とは、ある国が複数の国と条約を結んでいる場合、そのうちのA国に対しとくに有利な取り決めを行なった場合、その取り決めは、A国以外のすべての条約締結国にも自動的に適用されるというものである。近代国家間では、相互に最恵国待遇を与えるのが通例であるが、清と欧米列強との条約では、清側のみが一方的に相手国に最恵国待遇を与えるという、不平等なものであった。

清朝は、1844年にアメリカと望厦条約ぼうかじょうやく、フランスと黄埔条約こうほじょうやくを結んで、翌1845年イギリスは最初の租界そかいを上海に設置した。こうして南京条約以降、中国は主権の一部を失った不平等条約のもとで欧米列強の激しい進出にさらされ、いわゆる半植民地化の道をたどることとなった。

租界 concession

イギリスは、虎門寨追加条約により、開港場において土地を借り入れることを認められ、のちには借り入れた土地ではイギリスが行政・司法・警察権を保有することも認めさせた。このような土地を租界といい、こうした条件で土地を借り入れることを租借という。これは中国国内に外国領が設けられるに等しかった。やがて他の列強もイギリスにならって各地に租界を設定し、中国の半植民地化を推進していった。

アヘン戦争と日本

アジアの大帝国清の無残な敗北は、日本にも大きな衝撃を与えた。江戸幕府は、異国船打払令を緩和して欧米諸国との無用の衝突を回避する一方、高島秋帆らを登用し、西洋式砲術を採用して海防の強化に努めた。また、林則徐の同志であった魏源ぎげんの『開国図志』(欧米を含む世界の地理と情勢を記す)がいち早く輸入され、その「外国の優れた軍事技術を習得して外国を打ち払う」という主張は、時流に鋭敏な武士たちに広く共感をもって読まれた。また、こうした「清朝の失敗をくりかえすまい」という意識は、軍事のみならず、より広範な洋学学習への道をも開いていった。

アヘン:アヘンは消しの乳液から作られる麻薬で、モルヒネをはじめ約20種のアルカロイドを含む。強い習慣性があり、長期常習の結果、心身ともに衰弱して廃人にいたる。アヘンは、清のはじめにオランダ人によってもちこまれたが、1729年に雍正帝により禁令がだされていた。

アヘン貿易:こうしたアヘン貿易によって巨利をあげたイギリス商人の代表が、ジャーディン=マセソン商会であり、アヘン戦争に際しても背後で重要な役割を果たした。

領事裁判権:中国国内における外国人の犯罪は、中国駐在のその国の領事が裁判を行うというもの。

協定関税:関税は一国の国内問題であるから、関税率は当事国が任意に定める権利をもつというのが近代国家の原則であるが、虎門寨追加条約では、清朝は関税率を任意に定める権利を認められず、貿易相手国(欧米列強)との合意が必要とされた。

参考

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