金印勅書
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金印勅書

1356年1月ニュルンベルク、12月メッツの2度の帝国議会でカール4世(神聖ローマ皇帝)が発布した神聖ローマ帝国の帝国法。その名は勅書に黄金の印章を用いたことに由来する。皇帝選出権を聖俗の七選帝侯にゆだねた。選帝侯はマインツ・トリール・ケルンの三大司教と、ベーメン王・ブランデンブルク伯・ザクセン侯・ライン宮廷(ファルツ)の四大諸侯に限定され、会議はフランクフルトで開催、評決は多数決とし、教皇の認証を必要としないというものであった。

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ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ中世世界の変容

ドイツの分裂

ドイツでは、ホーエンシュタウフェンヴェルフ家との間に宿命的な対立があったが、12世紀末と13世紀半ばにフランスとイギリスが介入し、異例の国王二重選挙となった。その結果、1273年にハプスブルク家ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)が即位するまでの間、ドイツは実質的に皇帝不在となった(大空位時代)。ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)は、自家の領地広大を第一義とする典型的なドイツ貴族であり、神聖ローマ帝国は完全に形骸化していった。

シュタウフェン派の推す国王(カスティリャ王)とヴェルフェン派の推す国王(イギリス王の弟)が並び立ったが、ふたりともドイツにはほとんど顔をみせなかった。
金印勅書

1356年1月ニュルンベルク、12月メッツの2度の帝国議会でカール4世(神聖ローマ皇帝)が発布した帝国法。その名は勅書に黄金の印章を用いたことに由来する。これによると、選帝侯はマインツ・トリール・ケルンの三大司教と、ベーメン王・ブランデンブルク伯・ザクセン侯・ライン宮廷(ファルツ)の四大諸侯に限定され、会議はフランクフルトで開催、評決は多数決とし、教皇の認証を必要としないというものであった。

参考 詳説世界史研究

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