新政府の発足 明治維新
明治元年10月の明治天皇の東京行幸における六郷の渡しでの情景。総勢2800人が六郷川(多摩川)に特設された船橋を渡っている。武州六郷船渡図(月岡芳年画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

新政府の発足

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新政府の発足

  • 1868(慶応4) 鳥羽・伏見の戦い, 五箇条の誓文公布, 江戸城無血開城, 政体書制定, 奥羽越列藩同盟結成, 江戸を東京と改称, 明治天皇即位の礼
  • 1868(明治元) 明治と改元
  • 1869(明治2) 東京行幸, 戊辰戦争終結

新政府の発足

1868(明治元)年1月、新政府はいち早く条約締結諸国に王政復古によって天皇を主権者とする新政権が成立したことを通告し、諸国の承認を得、国内に向かっては開国和親の布告を行った。ついで同年3月14日、旧幕府征討の軍勢が江戸に向かいつつある最中に、新政府は、京都御所の紫宸殿ししんでんにおいて、明治天皇自身が群臣をしたがえて天地の神々に誓約するというかたちをとって五箇条の誓文を発し、新しい政治の方針を天下に表明した。これは、政局の動揺をおさえ、公家・諸侯・諸藩士を新政府のもとに結集させるために出され、公議輿論よろんの尊重・開国進取・旧習の打破など新しい政治の基本方針を明らかにし、併せて、天皇が国の中心であるという政治理念を国内に示したものであった。

翌日、太政官がかかげた五榜の掲示(高札)では、五倫ごりんの道を説き、徒党・強訴を禁じ、キリスト教を邪教として禁じるなど、旧幕府のそれまでの儒教道徳に基づく教学政策を引き継いでいたが、それらはすべて5年以内に撤廃された。さらに、同年閏4月、政体書を発布して誓文の方針を官制に具体化して、新政府の組織をととのえた。

政体書の官制

政体書では、「天下ノ権力ヲ総テ太政官二帰」せしめて、中央集権化をはかるとともに、アメリカ憲法を模倣して、その権力を立法、司法・行政の三権にわかち、形式的には三権分立の体裁をととのえた。立法を担当する議政官には上局・下局を設置し、行政部門は行政官のもとに4官を設け、司法部門には刑法官をおいた。高級官吏は4年ごとに互選で交代させることとしたが、実際には有名無実であった。なお、地方官制は府・藩・県の三治制とした。

1868(明治元)年9月、新政府は元号を明治と改めて、天皇一代の間は一元号とする一世一元の制をたてた。またそれに先立ち、同年7月、江戸を東京と改称し、10月には明治天皇(在位1867〜1912)が東京行幸を行い、翌1869(明治2)年初めには政府もここに移り、いわゆる東京遷都を断行して、従来の旧習を一新して新政を推進する決意を示した。

こうして始められた明治新政府の一連の政治的·社会的大変革は、封建的な制度を打破し、国際社会において欧米先進列強諸国と肩をならべる近代日本の建設をめざす出発点となった。当時それは“御一新ごいっしん“と呼ばれ、新しい時代の到来として大きな期待がかけられた。今日では幕末から明治初年にかけての変革を総称して明治維新と呼んでいる。

御一新と維新

新政府は成立に際して発したいわゆる王政復古の大号令のなかで、「百事御一新」を唱え、政治をすべて新しくすることを強調した。御一新という言葉は、そうした期待をこめて世に広まり、大きな変革を意味するものとして、広く用いられるようになった。この一新に通じる言葉として中国の古典である『詩経』のなかにでてくる維新という古語があてられたものと思われる。明治維新とは狭くいえば幕府の崩壊・新政府の成立を指すが、歴史用語としては幕末から明治初年にいたる政治的・経済的・社会的変革の過程を総称するものとして用いられている。

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