青年トルコ革命
青年トルコ革命 新憲法のチラシ(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

青年トルコ革命


青年トルコ革命 1908

オスマン帝国でおこった立憲革命。「青年トルコ人」(「統一と進歩団」)が、1878年に停止されたミドハト憲法の復活を目指し、青年将校エンヴェルらが立憲制を宣言すると、皇帝もこれを認めて憲法を復活させた。

青年トルコ革命

  • マケドニア地方のサロニカで、エンヴェルらの青年将校が成功させた無血革命。マケドニアをめぐる列強の動きに対し、青年将校らが立憲制を宣言すると各地で祝賀式典がおこなわれ、地位保全のため皇帝も立憲制を宣言した。なお「青年トルコ人」は1913年のクーデタまで、直接に政権を握ることができなかった。
  • オスマン帝国でおこった立憲革命。通称「青年トルコ人」(「統一と進歩団」)が、1878年に停止されたミドハト憲法の復活を目指し、青年将校エンヴェルらが立憲制を宣言すると、皇帝もこれを認めて憲法を復活させた。
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帝国主義とアジアの民族運動

世界分割と列強対立

バルカン半島の危機

オーストリア=ハンガリーは自国内のスラヴ系諸民族にパン=スラヴ主義の影響がおよぶのを恐れ、バルカン半島への勢力拡大をねらっていた。ドイツにも世界政策の一環として中欧からバルカンへの支配を拡大し、ドイツ民族の連帯を主張するパン=ゲルマン主義が唱えられていた。1908年夏、オスマン帝国で青年トルコ革命がおきると、オーストリアはベルリン会議で行政管理権が認められていたボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合した。両州の住民は大半が南スラヴ系であり、南スラヴの統合を唱えるセルビアが編入を望んでいた地域であった。オーストリアに反発したセルビアはロシアに助けを求め、戦争の危機が高まった。

青年トルコ革命
青年トルコ革命 マケドニア地方のデモ(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

スルタン専制に反対する青年知識人や将校らの「青年トルコ人」は「統一と進歩団」を結成して立憲政治復活をめざした。一時弾圧をうけパリに本部を移したが、1908年にサロニカ(テッサロニキ)で蜂起し、ミドハト憲法を復活させて政権を握った。革命後パン=トルコ主義を標榜ひょうぼうするようになった。 参考:山川 詳説世界史図録 第2版: 世B310準拠

アジア諸国の改革と民族運動

西アジアの民族運動と立憲運動
アジア・アフリカにおける植民地化に対する抵抗運動地図
アジア・アフリカにおける植民地化に対する抵抗運動地図 ©世界の歴史まっぷ

オスマン帝国では、スルタン・アブデュル=ハミト2世は、1878年にミドハト憲法( オスマン帝国の改革)を停止して以降専制を続け、オスマン帝国存続の道をパン=イスラーム主義に見出し、アフガーニーをイスタンブルに招いたが、それは帝国の一体性を維持するための道具にすぎなかった。他方帝国の内部では、セリム3世以来の改革によって、西欧式の教育をうけ、西欧の思想・文化を享受した官僚・将校・知識人が育ち、彼らがトルコ革命へといたる改革の担い手となった。

1889年に結成された「統一と進歩委員会」は、スルタンの弾圧をうけ一時パリに拠点を移し、専制の打倒と立憲政治の復活をめざした。西欧では「青年トルコ」 Genç Türkler の名で知られたが、クルド人・アルメニア人や、ロシアからの亡命トルコ人らも参加した。1906年にサロニカ(テッサロニケ)に本部を樹立し、ここに駐屯する青年将校の間に支持をえた。1908年に同地で軍の反乱を組織し、ミドハト憲法の復活を要求し、スルタンはこれを認め、第2次立憲政が成立した(青年トルコ革命)。13年には、対外危機を背景に、クーデタによって政権を掌握し、エンヴェル=パシャ Enver Pasha (1881〜1922)やタラート=パシャ Talat Pasha (1874〜1921)らによる三頭政治をおこなった。青年トルコの運動は、反専制の点では一致していたものの、ムスリム=トルコ人の主導による帝国の再建を主張する派と帝国内の諸民族の融和を重視する派との対立があった。また、ロシア領中央アジアからの亡命トルコ人の流入にともない、ジヤ=ギョカルプ Ziya Gökalp (1876〜1924)らの主唱するトルコ民族主義の傾向が強まった。

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61.列強の国際対立の激化

三国協商の成立とバルカン半島の緊張

イギリス・ロシアの対立にかわり、イギリス・ドイツの対立が基本的な国際対立となり、対立の焦点は東アジアからバルカン半島に移った。バルカン半島では、パン=スラヴ主義をとなえるロシアと、その拡大をきらうオーストリアが対立した。オーストリアは国内のスラヴ系諸民族にパン=スラヴ主義の影響がおよぶことをおそれていた。1908年にオスマン帝国に青年トルコ革命がおこると、その混乱に乗じてブルガリアが独立宣言し、他方オーストリアは管理下にあったボスニア・ヘルツェゴヴィナ2州を併合した。しかし、この2州の編入をセルビアがねらっていたので、両国の対立は悪化した。

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